12.2021
どんなに生きることに長けた者であっても、その慌しさに奔走する月。まるで神様から未熟者の烙印を押されたような存在として不器用に生きている私にとって、それは「まともに立っているのがやっと」という状態を意味する。これまでの常識が次から次へと変革を起こしている最中、あらゆる事象を全力で、概念ごと壊して走り続ける日々だった。たとえ自分の前に用意された道が、綱ほどの頼りない太さしかなかったとしても。必ず向こう側に行けると信じて、ただ、走るしかなかった。
そんな緊張感に支配された毎日を送りながら、追い討ちをかけるようにして、私はささやかで確かな誓いを自分の中に立てる。決意したことをわざわざ形にするなど、愚かしいだろうかと一瞬自問するが、その考えはすぐに打ち消した。大丈夫。きっとこれなら、無垢を携えた瞳のように輝いて、いつでもその光で、私を守ってくれるだろうから。
そうしていつでも身に着けることに決めた、「永遠の愛」を意味する石。光にかざして眺めようと思えば、外気に触れた指先が、感覚を失い痺れていることに気がつく。冬は、気がつけばいつも私に寄り添い、包みこむようにして、この身体から余計な熱を奪うのだ。
紛れもなく、この世界は自分自身が構築している。あまりに信じ難く、しかし同時にそれを認めざるを得ないような出来事で、全身が満たされていく。仮説と検証を幾度となく繰り返した末たどり着いた結論は、直感を信じるしかないのだという事実だった。森羅万象は繋がっていて、自分が変われば世界も変わる。責任感の強さを自負しながら生きる人間にとってそれは、思わず武者震いするような前提かもしれない。
しかしながら、それがまったくの早計である可能性も捨ててはおけない。もう少し、あと少しで到達できると確信したところで、幻のようにふわりと逃げられてしまうのが、真理の真理たる所以でもあるだろう。油断は禁物だ。結局こうして気の抜けない日々が続いていくのだろうが、結果としては、善く生きた一年だった。差し当たり、そういうことにしておこう。
11.2021
外へ出て、身体の中へあたらしい空気を通すたび、寒さが色濃くなるのを感じる。毎年そうであるように、いつ訪れたのかもわからない秋は、今年もまた、いつの間にか去ろうとしていた。
疑問がつぎの疑問を呼び、相変わらず私は、自分自身の好奇心に弄ばれながら過ごしている。身につけた知識を実践として使う場面が目に見えたことは、ひとつの大きな喜びと言えるだろう。はっきりと分かるのは、新しいものと古いものは常に表裏一体で、自分と他人は地続きで、なにごとも限度を超えないほうが賢明だということ。あとは、どんな問題もきっと解決できると信じて、循環の頻度を上げながら作業を洗練させていくだけ。長い目で見ればこの世界は、楽しいことしか待っていないかもしれないな。
それがどういう文脈であれ、環境を変えることは即ち、自分の置かれている立場にも変化が生じることを意味する。そうして今までとは違う視点で世界を観察する場面に遭遇すると、ときおり、過去の自分自身が張った伏線を、今の私が回収しているような錯覚に陥ることがある。すべての出来事にはかならず意味があって、無駄なことなどほんとうに、ひとつもないのだと腑に落ちる瞬間だ。
いっそのこと、頭を強く打って忘れてしまいたいというような過去が、かつての私には数え切れないほどあった。世界のすべてを呪いながら毎日を食いつぶすようにただ生きて、涙すら枯れてしまったと思うほど辛い時期があった。あの頃の私に会えたら、と、夢想する今、過去の自分にかけてあげたい言葉は決まっている。どんなに苦しくても、大丈夫。その痛みは、やがて強さとやさしさに形を変えて、かならず愛に還元されていくから。
10.2021
運命の糸を手繰り寄せながら、やわらかな枯れ葉の絨毯を踏んで歩く。一歩、また一歩と前へ進むたびに、陽の光は繊細さを増してゆくようだ。いつの間にか訪れていた秋の、淋しさだけではない一面を私は、きちんと自分の手に収めることができているだろうか。
最近の私は、自分自身のために生きることが、巡りめぐって他者のためにもなるということの実感を得つつある。自分を愛すれば愛するほど、呼応するようにして世界もまた、愛で溢れていく。どこにいても何をしていても、自分が欲しいものは、それを強く望んで歩き出せば必ず手に入る。それは往々にして言語化できない感覚であり、確証などはない。ところが稀に、自分が今まで積み重ねてきたものが、誰の目にも明らかなほどの結果として表れることがあるのだ。予期せず訪れるその瞬間を、私はいつでも純粋な驚きとして受け止める。それは淡々と課題を消化していく毎日への刺激であり、場合によっては、ある種の起爆剤にもなりうるのだが。
まるで病に侵されたかのように手放す日々は、今も続いている。かつての自分が、長い間たしかに必要性を感じていたもの。そのひとつひとつと真摯に向き合って判断を下すたび、比例するように集中力が高まっていく。自分にまつわるすべてのことがらに対し、できる限りの責任を負うこと。すこしの勇気を味方につけて、自分の運命を試す作業。昔は怖くて仕方なかったはずなのに、今はそれが、楽しくて仕方ないのだから笑ってしまう。
そうして軽やかに舞うように歩いているうちに、きっと気づけば、吐息は白くなる。儚くも愛しい寒さを、私は今年もまた、迎え撃つのだ。
09.2021
去り切らない夏の気配に、密やかに近づく秋を想う。気がつけば、また私は季節の狭間に立っている。目に見えない変化は、外気のそれだけにとどまらない。昨夜、目をつむる前に常識だったことが、今朝、目が覚めたらもう跡形もなく消え去っているなどということを、つい最近、思い出せるだけでどれほど経験しただろうか。そして、それをただあるがままに受け止めるなどという術を、私はいったい、いつ身につけたのだろうか。これが「大人になる」ということなら、もしかしたら本当に、そうなのかもしれない。だって私は事実、またひとつ、歳をとったのだから。
あるひとつの指針に基づいて歩き始めてから、しばらく経つ。それまで、私はなにごとも、自分ですべてを選び取り決めてきた。そしてそれはこれから先も、ずっと変わらないのだと思っていた。たしかにある種の事実として、それは今も私の中に生き続けている。
しかし同時に、自分の意思などまるでそこには存在しないかのように、私はただ、光に導かれて歩いている。最初にそう自覚したのは、果たしていつのことだろうか。光が示すものと、自分で選ぶものが必ず一致する。それがけっして偶然ではないことを、初めは怖いとすら感じた。本当にこれでいいのだろうかと、いまだに、時折つい自問してしまう。どれほど私が問いかけようとも、光はいつだって、ただ静かに、行き先を照らすだけなのだが。
08.2021
精神を蝕むほどの暑さに目を瞑りながら、自分にとって大切な、ふたつの課題に着手した。その枕詞に「大切な」などという形容詞がつくことなど、数年前の私には想像すらできなかっただろうと思う。そんな、いわばある種の意外性を孕んだ、短期的な挑戦。人知れず実行し、それぞれと決着をつける形で結末を迎えた。いつもと違うのは、それらの課題がいつも以上に、きわめて結果の良し悪しを問わないという点だ。もはや面白さすら覚えてしまったのだが、「意外性を孕んだ挑戦」には、「意外な結末」が待っていた。
こういうことを繰り返すたび私は、ものごとへの向き合いかたが、どうしようもなく不器用だと自覚する。それは言わずもがな、昔からずっとそうだ。いちど標的を決めたら、精根尽き果てるまで対峙しなければ気が済まない。私は結局、そういう自分自身のことを愛しているのだ。それも分かっている。しかしながら、だ。せめてもう少しだけ、この身体を「うまく」使うことができれば−と、儚くも夢想することがある。悲しいかな、それは決まって、すでにほとんど抜け殻と化した頭の片隅で、なのだが。
一般に「成長」とは、相対評価に依るところが大きい。即ち、自分自身でそれを実感として受け取れることはそうそうない、ということだ。ただし、当人が自身にまつわる情報を、ある一定の観測点から、記録として残しておいた場合は例外だ。
それを念頭において始めたことなどひとつもないが、結果的にそういう見方をできることなら、私にはたくさんある。なにかを地道に続け、すこしずつ積み重ねていく作業。そして、その作業がもたらしたいくつかの軌跡を、ある地点ごとに比較するとき、私はとてつもなく甘美な気持ちになるのだ。息を切らして走り続ける日々は、いつだって永遠には続かない。呼吸を整えるためにふと立ち止まった折、私を救ってくれるのは、いつだって過去の私自身が残した、温度を持たない記録たちだ。事実と現実を見つめる中で、徹底的に他意を排除しようと足掻いた証。誰のためでもなく、私が私を愛そうとした何よりもの印。だからこれも、きっといつかは。
07.2021
夏が来た。あまりの暑さに呼吸を忘れて、それを逆手に取るような集中力で勉強する日々が続く。なにかに没頭するとき、ステレオのボリュームをすこしずつ下げるようにして世間から解離するのは、昔から変わらない癖だ。あなたは浮世離れしている、と他人からときどき評されるが、それはこういうところに由来するのかもしれないな、と自嘲気味に思う。
そうしてノイズを遮り、特定の分野にかんする知識を深めていくにあたり、何冊かの本を読んだ。名著と呼ばれるものばかりに手をつけたおかげで、読みすすめるたび、身体に圧力がかかる。自分の心臓が波打つ音がうるさいくらいに聞こえて、手がふるえた。本当に洗練されたものは、いつだって脳を揺さぶるような衝撃を与えてくれる。そして、人はいつでも、何度でもこうやって、なかば手軽に自分の人生に革命を起こしてしまうのだ。これだから学ぶことをやめられない、と思う。私にとってきっとそれは、ある種の麻薬みたいに作用する。
自分の行為が招いた結果を受け取った日、恐れていたような悲しみは訪れず、拍子抜けした。同時に、なにもかもに対する必然を感じる。自分にしかわからない種類の納得がそこにはあって、私はただ静かに、あるがままに、それを受け入れた。
真逆の性質を持っているように「みえる」ものたち。それらは各々、手が届かないほど遠い場所に置かれているのだと、私はずっと思い込んでいた。しかし、淡々と歩き続けるうちに、すべては背中合わせなのだということを知る。昼と夜が交互に訪れるように、光があるから影ができるように。そしていつかきっと、善も悪も、概念の海に溶けてなくなっていく。−ああ、穏やかなまなざしで見つめた先の世界は、いつだって呆れるほどに美しいな。
06.2021
止まない雨の音に耳を澄ませ、憂いを孕んだ空気で肺を満たす。湿気にやられて、自分の身体までもが重さを増したかのように錯覚しながら、雨を飲んで生きる美しい花たちを眺めた。
満足に外出できない状況を利用して、いくつかのことを始めてからしばらく経つ。きちんと観察すれば、それらはどれも、かつての私が目を逸らしていたことにほかならない。うつくしい魂をいれておく器のことも、うつくしく磨いたっていっこうに構わないのだ。そう自分自身に許して久しいが、つい最近まで無視していたぶんの反動とでも言わんばかりに、物理的な痛みを伴うから、思わず笑ってしまう。しかし、その痛みすら愛で包んで、自分だけのものとして受け止められるようになった今の私を見たら、過去の私はいったい、どんな顔をするだろうか。
この時期になると、かならず思い出す人がいる。そして、彼が人間としてではなく、光そのものとなって私たちを照らすようになった日、季節は梅雨だというのに、まるで冗談みたいに快晴だったことを、今もはっきりと覚えている。私にとって、「忘れたくないこと」と「忘れられないこと」が合致する例は、そう多くはない。感情の、感覚の、ひとつひとつが未だに手触りや温度として残っていて、記憶の扉を開けるたび、反射的に泣いてしまうほどのできごとは、今のところこれだけかもしれない。
裏を返せば。いや、だからこそ。この時期に雨が降るのだろうか、とも思う。悲しみを灰色の空に隠して、苦しみを水に流してしまいたいと願う、ちいさな人間の気持ちに対する、天からの赦し。素直に受け取って、自分の弱さも脆さも受け入れたら、雨が降り出す前よりきっと、私は強くなれる。太陽が顔を見せる頃にはきっと、私はまた歩き出せる。だからどうか、今だけは。
05.2021
どちらへ行こうか迷い続ける空模様に呼応するように、何度か体調を崩した。五感で享受するものすべてが夏をはらんでいてまったく困惑するが、それを言い訳にできないまま私は、ひとつの大きな課題に挑む。それはたしかに、必要なものをひとつひとつ選び、揃えていく作業。すこしの油断も、ささいな妥協も許さない姿勢をとりながら、神経をすり減らす日々が続いた。しかし割に合わず、ものごとは水の中を歩くような速度でしか進まない。苛立ちを覚えながら、酸素を求めて水面から顔を出した私は、喘ぐように肺へ空気を取り込みながら思い出す。10年前もこの場所で、こうしてひとり、もがいていたことを。
この課題に取り掛かる前、すこしだけ怯んだ瞬間があった。もしかすると、これが済んだら私は、燃え尽きてしまうかもしれない、と。それでも。それでも、挑戦する意味があるなら、選択肢はひとつだ。そうやって覚悟を決めたことも覚えている。しかし、終わってみるとなんてことはない。ただ呼吸がいつもの速度に戻り、次への指標が見えただけだった。
ほんとうに欲しいものは、自分の手で作るしかないのだということに気がついたのも、思えば10年前だった。そして、あの頃と今の私で異なる点といえば、これからあらゆるものを拾う者か、それとも、あらゆるものを手放した者か、ということだ。この10年間を回顧するつもりは毛頭ない。というより、黙っていても、結果が必ず物を言う。だから、無駄なことはしない。同じ零でも、質が違うのだ。
母語と、いくつかの外国語の間を行き来しながら、写真を撮る。気がつけば、ほんとうに笑ってしまうほど、毎日がただ、その繰り返しだ。すなわち私は、気がつけばずっと「言語」に触れている。両者の違いは、読み書き話すか、それとも見るか、ということだけだ。文字を書いているときは、その強さに鼓舞され、映像を見ているときは、その柔らかさに救われる。どちらかの力に降伏しそうになったら、もう一方へ逃げればいい。ずるい処世術かもしれない、という自覚はある。しかし一方で、私は自分自身の操縦が上手くなったな、と感心もする。だから、これでいい。
散歩しながら、街路樹たちが目に見えない速度で成長しているのを肌で感じる。すこしずつでも、確実に。さあ、今年も夏が来る。
04.2021
かねてより機会を待っていたことに、着手した。それはまるで自分自身の中に、毎日ちいさな革命が起きるような習慣だ。何かをひとつ覚えるたびに、頭の中でぱちぱちと火花が散っているような気がする。これをやるなら今しかないと、時期を見逃さなかった自分自身を褒め称えたいが、その余韻に浸る暇もなく日々は過ぎ去っていく。
いつでも、何事に対しても全力で挑むところを、自分自身の長所だと自覚している。そしてそれは同時に、短所になりうるということも。つまるところ私は、極端なのだ。全開で踏むことしか許されないアクセルを積まれただけでなく、ブレーキまで取り上げられてしまった車のように。出荷された瞬間から、燃料が切れるまで「走り続ける」という選択肢しか用意されていないから、しばしば自分自身を制御できなくなる。
そうやって息を切らしながら、ふと周りを見渡して驚いた。爛漫としていたはずの花々たちが、いつの間にかその姿をすっかり若葉に変えている。まったく、これだからかなわない、と思う。洗練されつくしたその変化と、自分の未熟さを比較して呆れた。たかが人間ごときが大いなる自然に、そもそも勝てるわけないのだが。おとなしく自分の負けを認めながら、大きく深呼吸して、去り行く春の気配ごと私は、新しい空気を吸い込む。まだまだ、もっと遠くへ、走り続けるために。
母語と外国語について学びを深めていくことに比例して、「距離」という概念について考える時間が増えた。興味深いことに、「相手との距離が親密度に影響する」という法則は、すくなくともいくつかの言語における共通項らしい。ここでいう「距離」とはおもに、心的なものを指し、それに応じて相手に対し使う単語を選んだり、話し方を変えたりする。なるほど、だから、と腑に落ちたことがある。
一般に人間関係において、とくに親しい間柄ならば何事も共有するのが美徳で、相手と近ければ近いほど良いとする風潮が少なからずあるように思う。しかし個人的な意見を述べるなら、これは非常に迷惑な話だ。反吐が出るほどに。ここから先、他人は絶対に立ち入ってくれるなよと定めた境界線を持つ人間からすると、そこを侵略しようとする者は敵以外の何でもない。だいたい、相手のすべてを知りたいなどという幻影めいた感情を抱いた愚か者は、いずれ必ず相手への敬意を失う。そしてそれは、ひとつの人間関係が終焉する合図に他ならない。
よって、だ。私にとって、一定の「距離」とは、対象がその美しさを失わないためになくてはならない要素なのだ。遠くから眺めていてきれいだと感じた山に近づいて登ってみたら、乾燥した岩肌の質感にがっかりしただなんて、傲慢にもほどがある。注釈しておくが、これは自戒だ。適切な距離を見失わず、それをきちんと測れるものさしを、私はどんなときも胸元から優雅に取り出せる人間でありたいのだ。
03.2021
足元を見れば、融けた雪の下から新しい芽が顔を覗かせている。頭上を見れば、桜の花がこれでもかと春の訪れを知らせている。なめらかな速度でものごとが終わりを迎え、おなじ速度でべつのものごとが始まっていく。そういう区切りを風の匂いの中に感じるたびに、季節があってよかった、と思う。
そうして、そわそわと落ち着かない心の行き場を探しながら、私はいくつかの個人的な課題に決着をつけた。長い間、私の四方を囲んでいた壁。あまりに高く、あまりに硬く、きっとこのままこの中で生きていくのだと思い込んで触ることすらしなかったそれを、ふと叩いて見ようと思ったのは、春の為せる業だろうか。
いちど決めたら、迷いはなかった。深呼吸して拳を握り、振りかぶって、正面から殴る。壁は、弾けるように音を立てて壊れた。その感触のあまりの軽さに驚きながら、しかし、私は気がついた。–この壁は、壊されるのを待っていた。さらさらと風に吹かれて消えていく破片を眺めながら、間違いなくそうだと痛感した。ああ、そして、ここへきてまだ私には、自由になる余地がある。
感情的になっている人間は、理由がなんであれ醜悪だ。だから私は、いかなるときも冷静さを失いたくない。そこで私は、私自身が愉しく、好ましいと感じる対象について考えた。それらはどれも、ある方針のもとに作られた濾過装置を備えているように思う。魅力はその工程にある。まずもって、途中で紙を一枚噛ませるという行為には、おそろしいほどの色気が含まれている。のみならず、その紙があることで余計な熱は冷め、汚いものは引っかかって落ちてこないのだから優秀だ。くわえて、一滴ずつ垂れてくる液体を待つ時間の、これまた甘美なこと。
さて、条件は揃った。己の欲と感情を懐柔して、思い通りの結果を抽出する「よくできた紙」に、私はどれだけ近づけるだろうか。
02.2021
地球の気まぐれに翻弄されながら、寒暖の境目を歩いた。しかし冬は強い。片鱗を見せた春の気配を追い返すようにして厳しく頰を突き刺す風に負け、外出を臆する日々が続く。結果として私は、あらゆるものを手放した。かつては自分の一部と言っても過言ではなかったはずのものたちに、非情なまでの決断を下していく。なにかがひとつ自分の手から離れるたびに、自由に一歩近づくと信じて。
そうしてこれまでに、どれだけの別れと対峙してきたのだろう。すべてを捨てても私は変わらず私のままだと言うのなら、独自性とはいったい、何を指すのだろう。仮にこの肉体が朽ちても、かつて私が存在した事実が、誰かの記憶に−または何かの記録に残り続けるのなら、何が生死を分けるのだろう。
ときおり、おそらくはもう二度と会えないだろうという人びとの夢を見る。目が覚めて、天井を眺め、それが夢だったと気がついてから、もう一度目を閉じる。ついさきほどまで触ることのできる距離に居た彼らを、もう一度まぶたの裏に映す。そうして私が浸るのは、希望に満ちた諦めだ。淋しさという感情が、比較的希薄であるということを自覚したのはいつだったか。たしか、他人から指摘されたのが契機だったはずだが、もうすっかり忘れてしまった。しかし、その由縁はこれかもしれないな、と思う。だってわたしは、望めばいつでも彼らに会える。それはときに、現実よりもずっとうつくしいかたちで。
01.2021
白。何かが何色にも染められていない状態を指すとき、人は往々にしてこの色を使う。あまつさえ、好ましい意味合いとして。私もその例に漏れず、その色でもってさまざまのものごとを形容してきた。その白が、すべてを染めてゆく光景を目の当たりにするまでは。
雪が降る音、をしばらく聞いていなかったせいで、それがこの世界に存在する一切の音と引き換えに手に入るのだということを、私は忘れていた。泣き声も、笑い声も叫び声も、初めからそんなものは存在していなかったとでも言うように、降り頻る雪の中へ吸い込まれていく。あまりの抗いようのなさに怖くなって、思わず、雪がこんなにも白い理由を考えた。そして、答えが見つかると同時に、私は思い出す。光の世界では、すべての色が混ざり合って出来るのは決まって白だということを。何もかもを帳消しにだってしてしまえる、その強さを。
以前に比べて、私は自分自身を随分と細部までただしく愛せるようになった。しかし皮肉にも、それと比例するようにして、人間という生き物の欲深さが浮き彫りになる。今もどこかで起こり続けている、目を逸らしたくなるような数々の問題を列挙しながら、私は下を見て立ち止まった。平等とは何か、という思念に絡めとられて、こうしてときどき身動きが取れなくなる。とりわけ最近は、自分の手の届く範囲外のことにまで意識が及ぶのだからキリがない。ほかの誰かを救いたいなどという欲求は独善に過ぎないと、私は一体いつになったら学ぶのだろうか。
解決策はとうに見つかっていて、ただそれを見失わないようにするだけなのだ。完璧を目指さないこと。完全などありえないと知ること。去年より今年、昨日より今日、できることが一つでも増えていればいい。止まっていた足が動き出す。だから前を見て、歩くだけ。世界が眠りにつくまで。