日本語/EnglishČeština

05.2023

 春と夏の間に立たされて、新緑の息吹きに気圧される。私の自我はいつまでも大気の流れに侵略されていて、ここまで来ると抗うのも莫迦らしい。大人しく木々のざわめきに耳を澄ませ、瑞々しい葉が重なり、擦れ合って生まれる会話に意識を沈める。正解も不正解も空気の中に溶け出して、私は力強い真実のみを受け取るのだ。すべては神のみぞ知る。慎ましく頬を撫でていく風は、それを伝えるのに充分だ。

 傍目には何の変化も見出せないほどの速度で、しかし私は着実な実績を蓄積してきた。その経過において、数え切れないほどの場面で歯痒さを覚えてきたことも、未だ記憶に新しい。だからこそ、いつだって手応えは確信へと変わる。得られた答えを手放さないのは、その源泉が直感に紐づいているからだ。今この瞬間を全力で生きた累積が、私という存在を私たらしめる。そして人はその感覚を、恐らくは自信と呼ぶのだろう。

 どれほど払い落とそうと試みても、漠然とした生温い空気が纏わりついて離れない。集中力は停滞し、まるで思考に靄がかかったかのようだ。そういう時期なのだと一蹴してしまえれば気も晴れるだろうが、雲ひとつない青空を最後に見上げたのは、一体いつのことだったか。

 大局的に見れば、そもそもこの数年間を、私はきっと曇天の下で過ごした。幾種類もの同じ物事について相対しては逡巡を繰り返し、未だに結論へ辿り着けていない項目すら存在する。例えば、自己開示の概念について熟考し、私は自分が狡い大人だと再確認した。他人が納得するだけの材料を、ある種の雛形に羅列し嵌め込んで投げ渡すだけの作業は平易だ。それがある種の逃避であることを自覚しながら、しかし止める術を探すほどの気力もない。そして唯一の突破口は、新たな環境に用意されていることも分かっている。

 潮時なのだ、本当にすべてが。だから今はただ、いつもの如く時期を待つだけだ。それはまるで、羽化を待つ蚕のように。曖昧で繊細な繭の中で、いつか日の光を浴びられることを夢見て。

 

04.2023

 春の陽射しに起こされて、空へ空へと背筋を伸ばす黄色い花たちを眺めて歩く。生ぬるい空気に意識を預けて歩くことを許されるのが、この季節の醍醐味だ。私の名前が持つ意味は、この花に由来する。踏まれたくらいでは簡単に折れないしぶとさと、誰に頼まれずとも道端に根を張り、澄まし顔で生きている身勝手さは、確かに我が身へ通ずるものを感じる。

 あくまでも自己評価として、私は以前よりもずいぶん強くなった。少なくともここ数年は加速度的にそうなっていると信じて疑わなかったが、自分の起源を前に立ち止まり、あえて再考してみる。運良く旧知の人々と再会し、「あなたは昔から、ずっと変わらない」という評価を得るに至った所以は何なのか、ふと知りたくなったからだ。そこで、右のとおり仮説を立てる。自身にもいくばくかの変化はあるにせよ、大きく変わったのはともすれば、私を取り巻く環境の方ではなかろうか。

 考えてみれば、取るに足らない自分自身の歴史を重ねる中で、私の軸となる主張はいつだって不変だ。かつて、それをあまりにも曲げられずに焦燥を覚える日々を過ごしたことさえあったはずなのに、今は翻って、時代に迎合されつつある感覚を手にしている。不思議なものだが、まあいい。いずれにせよ選択肢はひとつ、それが事実であるかどうかを検証するだけなのだから。

 匣庭の中で飼い殺されている状況に、もう見て見ぬふりはできない。大いなる力に急き立てられるようにして、私はようやく、そして静かに旅立ちの準備を始めた。この環境を構築したのも私なら、その身体を放り込んだのもまた、私自身だ。ホルマリンに漬けられた私が吐いた泡は、瓶の中を漂って浮上し、グロテスクに割れる。易きに流れることを望む怠惰な人間の習性を逆撫でするような課題の提示には、いつだって背中に厭な汗が伝う。しかし例によって、抗うことは許されないのだ。

 そうして己の課題と向き合いつつ、下剋上さながらの現象がそこかしこで勃発するのを、どこか冷徹な眼差しで観察する。狡い立場だと分かってはいるが、ここから逃れる方法を私は知らない。自分自身のことでさえ当事者意識が欠落している節があるのだから、他人のこととなれば尚更だ。蝶のようにひらひらと舞いながら静かに爆撃を躱わす日々は、さて、一体いつまで続くのだろうか。

 

03.2023

 桜に付随する記憶は、年を重ねるたびにその様相を変える。我ながら莫迦げているとは思うが、今年はまるで、平行宇宙へ接続されているかのようだ。煌びやかな電灯が儚い夜を照らし、祭りの喧騒に眩暈を覚える。砂糖に浸した飴細工を齧ると麻薬のように甘くて、頭の奥が痺れた。何もかもを忘れてしまいそうな春の夜、しかし神経を集中させてその匂いを嗅ぐと、冬の存在は未だ色濃く残っている。

 生来の性質に由来するのだろうが、名前のつけられないものごとを、私は本当に愛している。つい何かにつけて分類したくなるのは人間の性だろうが、誰かが定めた枠の中に放り込んだが最後、その輝きを失ってしまう現象は無数に存在する。誰かとの関係性も、いつかの夜も、本当は、ただそこにそれとして存在するだけで許されて然るべきだというのに。

 だから私は、未開の魅力を予感しては、敢えてそのまま何もしないでおく。可能性を秘めた存在の価値を知りながら対象に触れないことで、きっと人はその深みを増すのだろう。そうして細やかに積まれた哲学は繊細なヴェールとなり、私を包む。何かを知ることは、往々にして罪に似ている。呼吸するたびに罪を重ねて、いずれ犯した禁忌の数だけ贖罪すればいい。それはきっと「大人」に課された責任で、同時にその選択は、自由に接続されている。

 既存の価値観の壊し方にさえ、新しい方法が用意されていて辟易する。すべての数値において平均的な個体など、きっと本当は実在しないのだ。その事実に気が付いた者から順に配られる切符を、私も漸く入手したように思う。その小さな紙片を手の中に携えると、まるで魔除けを身に付けたような心持ちになった。それにしても、いったい私はどうやってここまで辿り着いたのだろうと、未だに時折思索する。とりわけこの頃は、統制を取ろうと苦心した対象ほど思う通りに行かない。かと思えば、執着を手放した途端、願ってもないことをいとも容易く獲得できたりもするのだから、本当に分からない。

 つまるところ、一切は為るようにしか為らないのだろう。ならば、留意すべきは己の怠惰と慢心だ。いつだって好機は、それを懐柔する技術を備えた者にしか与えられない。立ち止まるのが厭なら、走り続けて、その速度に緩急をつけるしかない。鼻で笑い、望むところだと啖呵を切る。何があっても、私はただ全身全霊で、己の使命を果たすだけだ。

 

02.2023

 愛しい季節の佳境が過ぎた。それでもなお澄んだままの空気に、これでもかと気持ちが救われる。孤独を愛する人間にとり、時として冬は救済そのものを意味する。繰り返すたびに少しずつ変化を加えながら、寒さはまるで美しさを増してゆくようだ。

 変わるのは、季節だけではない。「過渡期」とは言ったもので、その概念を定めるのは難しいが−しかし、いずれにせよ私たちは、変化し続けなければならない。内側から見た現状維持は、外側から見れば単なる衰退だ。だから軸はそのままに、無駄だけを省く。大儀に思えるのはきっと最初だけで、あらゆる諸作業と等しく、慣れてしまえばどうということはないだろう。今、人類単位で価値観の更新が要求されている。たとえそうであっても、本質を掴む千里眼さえ閉じてしまわなければ、未来は約束されたも同然だ。

 未だ雪の残る地面を一歩一歩踏み締めながら、心に空いたままの穴を埋める手立てを探して彷徨う。すべては時間が経つことでしか解決されないのだと、頭では分かりきっている。ただ、感情を持つ生き物として背負った使命が、煩わしくも私の理性を削るのだ。五感という五感が彼女の不在を叫び、項垂れて見つめた足元には涙が落ちる。分かっている。誰かを失う悲しみは、対象への愛の大きさに比例する。ちゃんと分かっている。無理に忘れなくていい。この経験を通してまた、人の痛みを理解できるようになればいい。だから、大丈夫。思いつくかぎりの方法で自分を鼓舞しようと試みるが、寂寞の思いは却って募るばかりだ。まったく、愚かで弱い自分が、ほとほと厭になる。

 しかし、この状況で集中力を要するほうがどうかしている。それならとばかりに、私は白昼夢の世界で貝殻と星屑を拾いあつめ、不恰好な天秤を拵えた。そうして、片方の皿には現実と向き合う悲しみを、もう片方の皿にはこの記憶さえ失ってしまう恐怖をそっと乗せる。図ったように均衡を保った秤の前に座り込み、抱えた膝の上に顎を乗せて、余韻を残してゆらゆら揺れるそれを眺めた。ふと、太陽と月がそれぞれに在ってよかったと、ぼんやりとした頭で考える。きっと日光はあまりに眩しく、その下を歩くには早すぎる。許されるかぎり、少なくとも今はまだ、月明かりの淡さに癒されていたいのだ。

 

01.2023

 神聖な寒さに精神の安寧を委ねて、降り積もる雪をぼんやりと眺める。夜明けにも似た新しい年の皮切りは、暗鬱と沈んだ気持ちを少しばかり軽くするのに一役買った。愚かな人間ごときが何を嘆こうとも、日は昇り、そして沈むのだ。不変の真実に殴られたり救われたりする己の身勝手さには、まったく嫌気がさす。知らず知らずのうちに積み重ねているであろう小さな罪の集積も、春が来れば雪溶けと共に流れていくことを願う。

 まるで雪の白さに反比例するように、悴んだ指先と鼻先が真っ赤に染まる。しかし、冬が来るたびに思う。この土地で生まれた人間として、この環境に屈するわけにはいかない。鋭く尖った氷柱にも似た集中力を剣に換え、いつ身に付けたのか知れない透明の翼を盾にして、私は懲りずにまたいくつかの試験を受けた。本当に、この終わりの見えない闘いに、私は一体いつ参加したのだろう。斬っても斬っても次の敵が現れて、落ち込む暇も、疲弊する隙すらないのだ。そして信じがたいことに、私の前に立つ敵の姿かたちは、いつだって私自身のそれと寸分違わず酷似している。そして彼女はその瞳に嘲笑を含ませて、私に告げるのだ。お前の負けず嫌いは、私が一番知っている、と。

 まさに冬の真ん中と呼ぶにふさわしい日、目標としていた長さに辿りついた髪を潔く切り落とした。顔も知らないどこかの誰かへそれを差し出す手続きを済ませたあと、鏡に映る自分自身を見つめる。そして、思わず笑ってしまった。ちょうど15年前の私に、あまりにもよく似ている。似ているも何も、私は私なのだからそれはそうなのだが−それにしても、だ。

 笑ってしまうのは、それだけではなかった。久しぶりに軽くなった頭に少しそわそわしながら、白い幻に翻弄されることを恐れ、朝早くから家を出た日のこと。持て余した時間を潰すために、繊細な冬の陽射しの下で文庫本を広げて読み始める。活字を目で追いながら、短くなったおかげで顔にさらさらと垂れてくる髪をかきあげて耳にかけ、その動作に我ながらハッとした。誰もいない冬の朝、私は学び舎の教室でひとり、今と同じように膝の上に本を広げて時間を潰していたことがある。そしてそれもまた、ちょうど15年前のことだった。

 呆れて口元に浮かぶ笑みを、手にした本で思わず隠す。人は、そう簡単に変わらない。分かっていても、それを実感する瞬間はいつも、目の覚めるような神秘に満ちている。

←2022