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02.2025

 驚くべきことというのは、いつでも起こるものだ。自分の身を置く環境を変えた途端に体調を崩し、自己開示もそこそこに、その場を去ることになった。毒に侵されたかのように顔も身体も醜く腫れて、鏡を見るのも厭になる。腹部を刺すような痛みに息ができず、無論、食欲も湧かない。何より、食べたそばから戻してしまう。いくつかの病院にかかったが、誰に何を聞いても、原因は分からないと言われた。そして驚いたことに、以前にも同じ症状で受診していると、それぞれの医師から告げられた。帰宅後、内出血で変色した身体を抱いて碌に眠れもせず、できることと言えば、ただただ自分自身に謝り続けるだけだった。辛くて仕方ないとずっと叫んでいたはずなのに、ひたすら無視して申し訳なかった。ただでさえ腫れて垂れ下がった瞼が、涙で濡れてついに開かなくなった。皮肉だが、これで醜い自分の姿を見ずに済む。

 自室でじっとしているほかないと、つい思考してしまいそうになる。しかし幸い、毒にも薬にもならないような作品で溢れた時代だ。草食動物のようにそれらを咀嚼し、揺らぐ情緒を誤魔化す。今後どうしていくのかなど、今はとても考えられない。とにかくここから逃げなければ、文字通り息ができない。—気がつくと、頭より先に身体が、旅立ちの準備をするべく動いていた。これから起こり得る、あらゆる可能性が脳裏を過っては消えていくが、もはや知ったことではない。自分の身を守るためにこの数年で会得した見切りの早さに、まったくもって今度も救われた。そして、この地を後にすると決めた途端、坂道を転げ落ちる石のように物事が進む。まるで、正しい選択を裏付けるかのように。

 記憶にある中で数え上げてみると、直近10年で十余回も転居をしていることに気がついた。住まいを変える毎に減り、移動に合わせて洗練されていく持ち物たちを、ひとつひとつ丁寧に箱に詰めながら、愛おしい気持ちになる。執着心は相当に薄いと自負しているが、四六時中を支えてくれる精鋭たちにかける愛情は深いほうだ。気性の荒い主人に根を上げず付き合ってくれる彼らには、いつまで経っても頭が上がらない。

 そうして、洗練されたのは持ち物だけに留まらないことに気がつく。図らずも荷造りの技術についても向上しており、余裕を持って準備を始めたために時間に余裕が出来た。運動ができないせいで眠れない節もあるから、気晴らしに散歩へ出かける。夜、ほとんどお守り代わりに薬を携えて外に出ると、やはり都会は光に溢れて眩しかった。観光客の波を掻き分け通りを歩くと、魅力的に加工され、人々の口に入ることを心待ちにする食べ物たちの暴力的な香りが鼻腔をくすぐる。方々からあらゆる言語が耳に飛び込んできて、思わず笑みが溢れた。ここでは、誰ひとり私のことなど気にしない。その都会の属性に、幾度となく救われてきた。最後まで貫かれたその姿勢に安堵した。

 そんな調子で、いくつかの思い出深い街を数日かけて訪れる。呆れるほどに毎日快晴で、まるで散歩日和だった。そもそも殆ど抱えていないであろう未練を、それでも完膚なきまでに手放していく。これで今生の別れとは到底なりそうもないが、しかし暫しのさよならだ。いつからか、世界に対して望むものがすっかり変わってしまったことに気づかせてくれて、感謝する。こうして私の都会暮らしは、思いもよらぬ形で、呆気なく幕を閉じた。

 

01.2025

 年末年始をひとりで過ごしたおかげで、今年の始まりは輪郭が溶けた。そもそも、季節の境界も曖昧で、心も身体もしばらく混乱している。銀杏の葉は今ようやく色づいて、いつになったら散るのかも分からない。ここへ来てからずっと、深呼吸をすることが難しい。神経が昂っているのか、うまく眠れない日も多い。適応できない自分を責めそうになるが、否、と思い直す。生物として、私は間違っていないはずだ。

 それでも外を歩きたくて、年始らしく神聖な場所をいくつか訪れた。冬の実感は薄いが、朝早くに出掛ければ、頬を刺す風は痛みを伴う冷たさを持ち、日射しは穏やかで繊細だ。そして、「神様」の前で手を合わせて祈りを捧げる瞬間だけは、俗世から隔離された感覚を覚える。たとえ気のせいだとしても、一切の救いがないよりはマシだ。

 ふと、愛すべき土地で迎えた5年前の元旦を思い出す。当時の経験は、生まれ育った環境と文化からまるでかけ離れており、私の中の小さな常識をひっくり返す祭りだった。地元の民から言わせれば、あれは観光客によって例年繰り返される悪ふざけだったのかもしれない。だとすれば、次はもっと地域に根差した営みを、異邦人の視点から観察することができたらいい。

 長いこと休んだのは記憶に新しいが、社会的に許された方法で、まとまった休暇をまたしても取得した。既存の環境に塵ほどの遺恨も残さず去ることに、私はあまりにも慣れすぎた。日が出てもなお微睡んで、いつぶりかに本を読みながら、未だこの時間にも給与が発生していることを不思議に思う。そうでなければ映画を観たり、散歩がてら買い物へ行き、自分で拵えた食事を摂り、また眠る。どこまで行っても、私はひとりだ。ひとりで、満ち足りている。

 しかし、こういう一連の流れを至上の歓びと取れるようになったのは、いつからだろうと考える。五月雨に人と会い、記憶がなくなるまで酒を飲まなければ立ち行かない日々もあった筈なのに、では一体あれは何だったのだろう。若気の至りで片づけてしまえば平易だろうが、それでは本質から逸れる。複合的な理由があるには違いないが、一言で断定するのは難しい。

 まあいいか。しばらく考えて、諦めた。こういう時は、台所に立つ。袖を捲り、器に卵を割り入れ、かき混ぜる。鍋に油を敷き、肉を炒めている間に野菜を刻む。一瞬で視界が雑然とし、あちらこちらで様々に音がする。今火にかけている湯が沸いたら、珈琲を淹れよう。頭の中で自分なりに筋道を立てながら、あらゆる作業を同時にこなす。そうして一旦は完全に混沌となった空間を、また秩序を持って整えていく。だから家事が好きだ、と思う。ほとんど瞑想に近い状態へ、簡単に陥ることができる。結局のところ、はっきりとした理由はなくとも、やはり私は私の日常を愛しているのだ。

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