11.2023
鮮やかに色を変えた木々に見下ろされ、少しばかり愛着が湧いた場所での新しい生活が始まった。節制と勤勉を胸に、物理的には嵩を増さない本を次から次へと読んでいく。時折、ゆったりと進む小さな電車に乗って、ひとりで少しだけ遠出する。基本的には歩くか座るかして、移動しながら思考する。そうしたい気分だからだ。さもなくば、気を抜いてまた運命に抗おうとしてしまう。最終的には、どこにも所属しないことなど不可能だと頭では理解している。それでも、本能がひとりを欲しているときは、なるべく自分を赦してあげたいと思う。私に与えられた使命は、何があっても変わらないのだ。
遠くない過去、理不尽な出来事に対して私は、自分でも制御できないほどの怒りを抱えていた。しばらくして、怒りは悲しみの二次感情だと学んだ。悲しみを素直に認められるようになったから怒りが縮小したのか、単に何事もすぐに諦めてしまうようになったのか、それはまだ分からない。他人からやさしいと形容されることが驚くほど増えて、それも本当に、自分では分からない。物事には必ず光と影があることも学んだ今は、すぐに結論を出せない場面も増えた。
それでも、希望を失わずになんとか進もうと思えるのは、私がこの世界で、常に誰かから、または何かから、常に救われてきたからだ。だから私は今日も秋の風に吹かれ、ため息も涙も飲み込んで、前を向いて歩くことができるのだ。
10.2023
しばらく距離を置いていた外の世界と、ふたたび繋がり始めたことを実感する日々に、また私はひとつの区切りをつけた。あらゆる自分の選択を、すべて最終的には正解に変えてゆくと誓ってから久しい。たとえ今は心からそう思えなかったとしても、いつか必ず、運命に導かれたことを思い知る瞬間が来る。今後の指針を決め、自分に必要なものをひとつひとつ手に取りながら荷物をまとめ、深呼吸する。短い間滞在した部屋で、床の埃を払い、濡らした布で拭き上げてから、何もなくなったそこで寝そべってみた。窓の外で秋の虫が鳴いているのが遠くに聞こえる。少なくとも間違いは犯していないのだと、そう言われているような気がした。
秋の軸に沿って歩くと、一歩前に進むたび、宝石のかけらを踏みしめたような音がする。私が纏う空気全てに奇跡が満ちていて、息がうまくできない。晴れの日も雨の日も、朝も夜も、鮮やかな色彩で劇的に染められていく。それはきっと、この季節特有の魔法だ。
そんな魔法にかけられた私は、仕組まれていることを疑うほどの正確さで、大切な人たちとの時間を順番に過ごした。あまりにも豊かな時間が次々に訪れて、それを受け取るので精一杯だ。1秒たりともこの美しさを忘れたくない、密閉容器にでも入れて永遠に残しておけたらいいのにと願う愚かな私を嘲笑うかのようにして、しかし時は過ぎていく。
ここへ来て、覚悟を決めたことがある。来年の今頃には恐らく実現しているであろうその可能性について、詳細を自分の内側に描き、反芻する。想像の世界で落ち葉を拾い集めて絵の具を拵え筆を滑らせると、ほとんど写真のように細部まで描かれた絵画が完成した。私は確信した。これは実在する未来だ。納得して筆を置き、小さく息を吐いて大きく息を吸うと、どこからか、金木犀の香りがした。
09.2023
どこへ行っても空には赤蜻蛉が舞い、日差しが柔らかさを増した。その余韻をほんの僅かばかり残して、夏が去ろうとしている。今年の夏は、新鮮で色濃い景色をいくつも魅せてもらった。何だかんだ言いつつ、毎年夏は美しい思い出に終止するが、とりわけ今年は忘れられないものとなるだろう。正に泡沫のような愛しい記憶が拭えぬまま、しかし私は、流行病に罹患するのだが。
情けないとはこのことで、熱に浮かされて呼吸もままならない。無理にでも身体を動かそうと少し歩いてみれば、地面が柔らかく歪むように錯覚し、恐ろしくなったから大人しく眠ることにした。意識を手放すと、熱くなった脳が奇怪な夢を次々と上映する。本当に最悪の気分だが、皮肉にも、結果としては良く休んだ。夏の疲労が一挙に押し寄せたことを、認めざるを得なかった。治癒が進んだころ、月並みながら平時の有り難みを思い知る。そしてこんな経験はもう二度と御免だ、とため息を吐こうとしたら、代わりにしつこく乾いた咳が出た。
環境が変われば、新陳代謝が上がる。殆ど原理と言っていいほどの必然を、きちんと自分の身体で実感している。そして、何が起ころうとも、今この瞬間だけは絶対に大丈夫という確信が、新たな出会いに説得力を生む。自分自身の歴史を紡いでいく過程を、私はいつからか、心から愛せるようになった。
そんな折、またひとつ歳を重ねた日に夜空を見上げると、眩しいほどの満月が私を見下ろしていた。遮蔽物のない山の夜を明るく照らす荘厳な存在は、世界の純粋な美しさを想起させる。月明かりに照らされ、あらゆる物体から淡く伸びた影は優しさを帯びている。この美しい夜を、これから待ち受ける特殊な慌ただしさへの祝福と受け取って、この夏を締めくくることにしよう。
08.2023
短い夏の中心に居る。私の日常は蝉の鳴き声と共に在り、補給した水分は同量の汗となって首筋に沿い流れていく。此処に居ると、自然の猛々しさをこれでもかと思い知る。空の青に、山の緑がよく映える。昼には入道雲があまりに立派で、この手で掴めるのではないかと錯覚する。夜には星があまりにはっきりと見え、順々に落ちて来るのではないかと錯覚する。
そうした瞬間のひとつひとつを噛み締めるたび、私が必要とするもののほとんどは、基本的に実体を持たないと気づく。おそらくは、手放し続けた期間を経て、遺したものを丁寧に扱う段階へ突入したのだ。幻想の霧が晴れ、本質が露わになる。潜在意識の側から切望していたことが叶ったとしたら、人はこういう気持ちになるのかもしれない。
宙に浮かぶ自我を持て余したまま、いくつかの関係に区切りをつける。それは時に受動的であり、時に能動的である。大人の私は知っている。永遠に続くと信じていた間柄が、ある日突然、風に吹かれた煙のようにその濃密さを失うことがある。そうかと思えば、絹の糸さながらに細い繋がりが、目を凝らしてみれば針金のように柔軟で頑丈だったりする。
そうして、そこには正義も悪も存在しない。また、たとえ何が起ころうとも、無駄なことは何ひとつ存在しない。本当の意味で、自分に関係ないことなど存在しない。観測者が優れた視点を持っていれば、どんなことからでも学びは常に得られるのだ。
強い日差しに疲れたら、日陰に入って少し休めばいい。目に見えない財産は、歳を重ねるに連れて重みを増す。そのひとつひとつを確かめる小さな私を置き去りにして、力強く、夏は進む。
07.2023
見えない力に背中を押されるようにして、慣れ親しんだ環境から抜け出した。暫く動かしていなかった関節のひとつひとつに油を差しなおすと、鈍く軋んだ音がする。止まっていた時は、とうとう動き出した。いったい、以前までの私は、どうやって呼吸をしていたのだろう。匣庭の外がこんなにも眩しいのは、初夏の日差しのせいだろうか。それとも、目の前に次から次へと現れる、可能性に満ちた存在たちのおかげだろうか。
いずれにせよ、何事に対しても予想することを放棄したくなるほどに、想定外の刺激を瞬きする速度で受けている。こういう状況に立たされるたび、本当にもう、抵抗するのは止そうと心から思うのだ。まったく、ため息を通り越して息切れがする。これは旅なんて生易しいものではない。そう、修行なのだ。
良かれ悪しかれ、私はまたひとりになった。人生の多くの時間を歩行と思考に費やす人間にとり、即ち有意義な時間が増えた。世界の輪郭を細部までなぞりながら、生活の基盤を再建する。豊かな淋しさは、私の幸福を構成する重要な要素だ。未だ慎ましさが残る熱を含んだ外気を吸って空を見上げると、雲さえ夏の形になり始めている。
そうして昼間を過ごす一方で、夜になれば無作為に相手を選び、人と話しながら道を歩く。山の夜は、束の間の休息だ。一歩前進するたびに、身体の強張りが解けていく。新鮮な価値観の欠片を拾うたび、何が起ころうとも、すべて間違っていないのだと思える。おそらく私は、旅立ちに相応しい季節を選んだのだろう。感傷に浸りたくても、朝になれば暑さに呼応して蝉が鳴き、嫌でも夏を運んでくるのだから。
06.2023
雨が誘発する僅かな頭痛を内包したまま、いくつかの重要な決断を下す。間違いなくこの数年間、いつかの私が未来の自分に委ねてきたであろう数々の問題に、次から次へと直面する事態に陥った。微塵も動揺しなかったと言えば、嘘になる。すべてを解決し尽くしたと言うのもまた、否である。
それでも、もう何も誤魔化すまいと覚悟を決めた瞬間から、どこかから追い風が吹き始めた。この国の人間なら誰もが知る高名な英雄が、愛と勇気だけを友達に掲げ闘い続けて久しい。ともすると、それは真理なのかもしれない。自らの世界を拡張する過程で、私が知る必要のある事項は、まだまだ無限に存在する。
概念上の「うつくしい終わり」について考えると、不思議なもので、うつくしさについて追求すればするほど現実とは乖離していく。また、特定の場所に土着することは、その土地に付随する情報を、雑音よろしく細やかな部分に至るまで拾い上げる局面も持っているだろう。
自認せざるを得ない事実の内のひとつとして、私の濾過機能は、きっとある角度から見れば必ず偏っているのだ。ものごとの透明度を上げようと志すのは構わないが、結果如何に関わらず、それを望まない者だって存在する。ならば必然、少なくとも現時点では、身軽な立場の人間が退くべきなのだ。
仮にそうだとしても、どこまでも内観したこの期間は、私の礎に深く大きく作用する。混沌としたうねりの中で何度も逡巡し、だからこそ故郷に立ち寄った貴重な時間だった。最終的に、全部大丈夫になる。大きな覚悟を小さな荷物に詰めたら、また進もう。少しずつ先へ。もっともっと、遥か遠くへ。
05.2023
春と夏の間に立たされて、新緑の息吹きに気圧される。私の自我はいつまでも大気の流れに侵略されていて、ここまで来ると抗うのも莫迦らしい。大人しく木々のざわめきに耳を澄ませ、瑞々しい葉が重なり、擦れ合って生まれる会話に意識を沈める。正解も不正解も空気の中に溶け出して、私は力強い真実のみを受け取るのだ。すべては神のみぞ知る。慎ましく頬を撫でていく風は、それを伝えるのに充分だ。
傍目には何の変化も見出せないほどの速度で、しかし私は着実な実績を蓄積してきた。その経過において、数え切れないほどの場面で歯痒さを覚えてきたことも、未だ記憶に新しい。だからこそ、いつだって手応えは確信へと変わる。得られた答えを手放さないのは、その源泉が直感に紐づいているからだ。今この瞬間を全力で生きた累積が、私という存在を私たらしめる。そして人はその感覚を、恐らくは自信と呼ぶのだろう。
どれほど払い落とそうと試みても、漠然とした生温い空気が纏わりついて離れない。集中力は停滞し、まるで思考に靄がかかったかのようだ。そういう時期なのだと一蹴してしまえれば気も晴れるだろうが、雲ひとつない青空を最後に見上げたのは、一体いつのことだったか。
大局的に見れば、そもそもこの数年間を、私はきっと曇天の下で過ごした。幾種類もの同じ物事について相対しては逡巡を繰り返し、未だに結論へ辿り着けていない項目すら存在する。例えば、自己開示の概念について熟考し、私は自分が狡い大人だと再確認した。他人が納得するだけの材料を、ある種の雛形に羅列し嵌め込んで投げ渡すだけの作業は平易だ。それがある種の逃避であることを自覚しながら、しかし止める術を探すほどの気力もない。そして唯一の突破口は、新たな環境に用意されていることも分かっている。
潮時なのだ、本当にすべてが。だから今はただ、いつもの如く時期を待つだけだ。それはまるで、羽化を待つ蚕のように。曖昧で繊細な繭の中で、いつか日の光を浴びられることを夢見て。
04.2023
春の陽射しに起こされて、空へ空へと背筋を伸ばす黄色い花たちを眺めて歩く。生ぬるい空気に意識を預けて歩くことを許されるのが、この季節の醍醐味だ。私の名前が持つ意味は、この花に由来する。踏まれたくらいでは簡単に折れないしぶとさと、誰に頼まれずとも道端に根を張り、澄まし顔で生きている身勝手さは、確かに我が身へ通ずるものを感じる。
あくまでも自己評価として、私は以前よりもずいぶん強くなった。少なくともここ数年は加速度的にそうなっていると信じて疑わなかったが、自分の起源を前に立ち止まり、あえて再考してみる。運良く旧知の人々と再会し、「あなたは昔から、ずっと変わらない」という評価を得るに至った所以は何なのか、ふと知りたくなったからだ。そこで、右のとおり仮説を立てる。自身にもいくばくかの変化はあるにせよ、大きく変わったのはともすれば、私を取り巻く環境の方ではなかろうか。
考えてみれば、取るに足らない自分自身の歴史を重ねる中で、私の軸となる主張はいつだって不変だ。かつて、それをあまりにも曲げられずに焦燥を覚える日々を過ごしたことさえあったはずなのに、今は翻って、時代に迎合されつつある感覚を手にしている。不思議なものだが、まあいい。いずれにせよ選択肢はひとつ、それが事実であるかどうかを検証するだけなのだから。
匣庭の中で飼い殺されている状況に、もう見て見ぬふりはできない。大いなる力に急き立てられるようにして、私はようやく、そして静かに旅立ちの準備を始めた。この環境を構築したのも私なら、その身体を放り込んだのもまた、私自身だ。ホルマリンに漬けられた私が吐いた泡は、瓶の中を漂って浮上し、グロテスクに割れる。易きに流れることを望む怠惰な人間の習性を逆撫でするような課題の提示には、いつだって背中に厭な汗が伝う。しかし例によって、抗うことは許されないのだ。
そうして己の課題と向き合いつつ、下剋上さながらの現象がそこかしこで勃発するのを、どこか冷徹な眼差しで観察する。狡い立場だと分かってはいるが、ここから逃れる方法を私は知らない。自分自身のことでさえ当事者意識が欠落している節があるのだから、他人のこととなれば尚更だ。蝶のようにひらひらと舞いながら静かに爆撃を躱わす日々は、さて、一体いつまで続くのだろうか。
03.2023
桜に付随する記憶は、年を重ねるたびにその様相を変える。我ながら莫迦げているとは思うが、今年はまるで、平行宇宙へ接続されているかのようだ。煌びやかな電灯が儚い夜を照らし、祭りの喧騒に眩暈を覚える。砂糖に浸した飴細工を齧ると麻薬のように甘くて、頭の奥が痺れた。何もかもを忘れてしまいそうな春の夜、しかし神経を集中させてその匂いを嗅ぐと、冬の存在は未だ色濃く残っている。
生来の性質に由来するのだろうが、名前のつけられないものごとを、私は本当に愛している。つい何かにつけて分類したくなるのは人間の性だろうが、誰かが定めた枠の中に放り込んだが最後、その輝きを失ってしまう現象は無数に存在する。誰かとの関係性も、いつかの夜も、本当は、ただそこにそれとして存在するだけで許されて然るべきだというのに。
だから私は、未開の魅力を予感しては、敢えてそのまま何もしないでおく。可能性を秘めた存在の価値を知りながら対象に触れないことで、きっと人はその深みを増すのだろう。そうして細やかに積まれた哲学は繊細なヴェールとなり、私を包む。何かを知ることは、往々にして罪に似ている。呼吸するたびに罪を重ねて、いずれ犯した禁忌の数だけ贖罪すればいい。それはきっと「大人」に課された責任で、同時にその選択は、自由に接続されている。
既存の価値観の壊し方にさえ、新しい方法が用意されていて辟易する。すべての数値において平均的な個体など、きっと本当は実在しないのだ。その事実に気が付いた者から順に配られる切符を、私も漸く入手したように思う。その小さな紙片を手の中に携えると、まるで魔除けを身に付けたような心持ちになった。それにしても、いったい私はどうやってここまで辿り着いたのだろうと、未だに時折思索する。とりわけこの頃は、統制を取ろうと苦心した対象ほど思う通りに行かない。かと思えば、執着を手放した途端、願ってもないことをいとも容易く獲得できたりもするのだから、本当に分からない。
つまるところ、一切は為るようにしか為らないのだろう。ならば、留意すべきは己の怠惰と慢心だ。いつだって好機は、それを懐柔する技術を備えた者にしか与えられない。立ち止まるのが厭なら、走り続けて、その速度に緩急をつけるしかない。鼻で笑い、望むところだと啖呵を切る。何があっても、私はただ全身全霊で、己の使命を果たすだけだ。
02.2023
愛しい季節の佳境が過ぎた。それでもなお澄んだままの空気に、これでもかと気持ちが救われる。孤独を愛する人間にとり、時として冬は救済そのものを意味する。繰り返すたびに少しずつ変化を加えながら、寒さはまるで美しさを増してゆくようだ。
変わるのは、季節だけではない。「過渡期」とは言ったもので、その概念を定めるのは難しいが−しかし、いずれにせよ私たちは、変化し続けなければならない。内側から見た現状維持は、外側から見れば単なる衰退だ。だから軸はそのままに、無駄だけを省く。大儀に思えるのはきっと最初だけで、あらゆる諸作業と等しく、慣れてしまえばどうということはないだろう。今、人類単位で価値観の更新が要求されている。たとえそうであっても、本質を掴む千里眼さえ閉じてしまわなければ、未来は約束されたも同然だ。
未だ雪の残る地面を一歩一歩踏み締めながら、心に空いたままの穴を埋める手立てを探して彷徨う。すべては時間が経つことでしか解決されないのだと、頭では分かりきっている。ただ、感情を持つ生き物として背負った使命が、煩わしくも私の理性を削るのだ。五感という五感が彼女の不在を叫び、項垂れて見つめた足元には涙が落ちる。分かっている。誰かを失う悲しみは、対象への愛の大きさに比例する。ちゃんと分かっている。無理に忘れなくていい。この経験を通してまた、人の痛みを理解できるようになればいい。だから、大丈夫。思いつくかぎりの方法で自分を鼓舞しようと試みるが、寂寞の思いは却って募るばかりだ。まったく、愚かで弱い自分が、ほとほと厭になる。
しかし、この状況で集中力を要するほうがどうかしている。それならとばかりに、私は白昼夢の世界で貝殻と星屑を拾いあつめ、不恰好な天秤を拵えた。そうして、片方の皿には現実と向き合う悲しみを、もう片方の皿にはこの記憶さえ失ってしまう恐怖をそっと乗せる。図ったように均衡を保った秤の前に座り込み、抱えた膝の上に顎を乗せて、余韻を残してゆらゆら揺れるそれを眺めた。ふと、太陽と月がそれぞれに在ってよかったと、ぼんやりとした頭で考える。きっと日光はあまりに眩しく、その下を歩くには早すぎる。許されるかぎり、少なくとも今はまだ、月明かりの淡さに癒されていたいのだ。
01.2023
神聖な寒さに精神の安寧を委ねて、降り積もる雪をぼんやりと眺める。夜明けにも似た新しい年の皮切りは、暗鬱と沈んだ気持ちを少しばかり軽くするのに一役買った。愚かな人間ごときが何を嘆こうとも、日は昇り、そして沈むのだ。不変の真実に殴られたり救われたりする己の身勝手さには、まったく嫌気がさす。知らず知らずのうちに積み重ねているであろう小さな罪の集積も、春が来れば雪溶けと共に流れていくことを願う。
まるで雪の白さに反比例するように、悴んだ指先と鼻先が真っ赤に染まる。しかし、冬が来るたびに思う。この土地で生まれた人間として、この環境に屈するわけにはいかない。鋭く尖った氷柱にも似た集中力を剣に換え、いつ身に付けたのか知れない透明の翼を盾にして、私は懲りずにまたいくつかの試験を受けた。本当に、この終わりの見えない闘いに、私は一体いつ参加したのだろう。斬っても斬っても次の敵が現れて、落ち込む暇も、疲弊する隙すらないのだ。そして信じがたいことに、私の前に立つ敵の姿かたちは、いつだって私自身のそれと寸分違わず酷似している。そして彼女はその瞳に嘲笑を含ませて、私に告げるのだ。お前の負けず嫌いは、私が一番知っている、と。
まさに冬の真ん中と呼ぶにふさわしい日、目標としていた長さに辿りついた髪を潔く切り落とした。顔も知らないどこかの誰かへそれを差し出す手続きを済ませたあと、鏡に映る自分自身を見つめる。そして、思わず笑ってしまった。ちょうど15年前の私に、あまりにもよく似ている。似ているも何も、私は私なのだからそれはそうなのだが−それにしても、だ。
笑ってしまうのは、それだけではなかった。久しぶりに軽くなった頭に少しそわそわしながら、白い幻に翻弄されることを恐れ、朝早くから家を出た日のこと。持て余した時間を潰すために、繊細な冬の陽射しの下で文庫本を広げて読み始める。活字を目で追いながら、短くなったおかげで顔にさらさらと垂れてくる髪をかきあげて耳にかけ、その動作に我ながらハッとした。誰もいない冬の朝、私は学び舎の教室でひとり、今と同じように膝の上に本を広げて時間を潰していたことがある。そしてそれもまた、ちょうど15年前のことだった。
呆れて口元に浮かぶ笑みを、手にした本で思わず隠す。人は、そう簡単に変わらない。分かっていても、それを実感する瞬間はいつも、目の覚めるような神秘に満ちている。