09.2024
ここしばらく、主題を決めて夜な夜な歩いては写真を撮っている。隣に人がいたりいなかったりするが、いずれにしてもそれは、美しい瞬間の連続だ。相変わらず残暑は厳しく、日没後もなお汗ばむ日が続く。しかし、晴れた夜空に浮かぶ月が透明度を増した。夏の頂点は、気付けば過ぎ去ったのだろう。
月の半ばに、友人を見送るため5年ぶりに空港を訪れた。電車で向かう間、自分が旅立った頃のことを思い出す。行きと帰りで変化がないのは荷物の量だけで、持ち主は文字通り生まれ変わった。自分を探す種類の旅があると、よく耳にする。私の場合は少し違って、私が私であると確認し、納得して帰ってきた。その手応えは、現在の私の礎だ。それが理由かは知らないが、強い風の吹く展望台で飛行機を眺めても、穏やかな幸福を覚えるだけだった。地上の熱は、きっと淋しさをも融解する。
歳を重ねることと大人になることは、重複する部分は多いだろうが、必ずしも同義ではない。幼い自分自身を内包したまま生きる身として、確かにそう思う。時折、未だ譲れない自我を覗かせる未熟な私は、もしかすると死ぬまでこうなのかもしれないと、最近は半ば諦めつつある。もしかすると、誰しもがそうなのかもしれない。
諦めることと受け入れることは、私にとって殆ど同義だ。特にこの数年は、あまりにも繰り返し、そう感じてきた。ただ、認めざるを得ないだけで、決して慣れたわけではない。目を逸らしたくなる現実も、抗いたくなる運命も、頻繁に訪れる。しかし、逃げたところで結果は変わらないのもまた事実だ。歳を重ねて得た利点は、今、この瞬間に意識を集中させるまでの速度が、昔に比べれば上がったことだろうか。
自分をただしく愛そうとすると、その難儀さに全てを投げ出したくなる。しかし同時に、真理と対峙すれば、環境すら巻き込んで自分の変化を感じられる。きっとそうして私は、小さな贈り物を毎秒受け取り続ける。これから先も、ずっと。
08.2024
ひょんなことから、若い頃にしばらく過ごした街を訪れた。都会にも田舎にもなりきらない微妙な土地で、いよいよ最後まで好きにはなれなかった。朧げな記憶を辿って、かつての最寄駅から抜け道を通り、以前住んでいた建物まで歩く。最後の記憶から何も変わっていないそこは、見たところ別の人が住んでいるようだった。とても一年半も住んだとは思えないほど街全体がよそよそしく、淋しい。もう一生来ないかもしれないと思うと、ますます淋しくなった。
帰り道、幾度となく使った歩道橋に上がり、下を通る太い道路を見下ろす。夕暮れ時という時間帯を選んだこともあり、さすがに美しいと思った。しばらくぼんやりとして、当時の無知な自分の身に起こった数々の出来事を回想する。涙が出るかと思ったがそんなことはなく、ただただ激励の言葉を贈りたくなった。
程なくして、今の家からすぐそばの歩道橋へ上がり、同じように下界を見下ろす。ここの方が幾分、自分に合っていると思う。日が落ちてもなお地面に残った熱に辟易するが、二度目の仮住まいとしては申し分ない。何より私は、地上の楽園を知っている。あそこに還るためなら、文字通り何でもすると決めたのだ。
可能性を秘めた存在に触れることは尊いと、ここへ来てますます思う。自分にとって新しい価値観を与えられる機会が年を追うごとに減っているからこそ、より煌めいて見えるのかもしれない。かつての自分も、誰かにとってのそういう存在だったのかもしれないが。
同時に、受動的であれ多くの時間を費やした環境が、人にもたらす影響の大きさを思い知る。文化は、その違いも含めて不思議で面白く、いつでも私の興味を惹いてやまない。もはや自我に根ざしてさえいる母語を紐解いて人に説明すると、あまりに滑稽で思わず笑ってしまう。昔の世に生きた人々は、かくも複雑で繊細な機構を編み出したのだ。曲がりなりにもいくつかの言語を渡り歩く身として、背筋が伸びる思いがする。だから私は、いかなる文化に対しても、愛と敬意を失いたくないと願うのだ。
07.2024
「新しい環境」の定義について考える。関わりと持ったことのない人々と交わり始めることを指すのか、物理的な居場所を変更することがそうなのか、はたまた両方か、もしくはそれ以外の項目が存在するのか。大抵の場合、私は成長の抑止を恐れて、馴れ合いが始まる頃にはそこを去ってしまう。それが強さか弱さかも、まだ分からない。ただ、今のところ不正解ではないような気がしている。
何があっても、いかなる自分の選択も正解にすると心に決めて久しい。しかし、いつでも自信に満ちているわけではもちろんなく、心が折れそうな朝も、虚勢を張る夜も存在する。それでも、それが人間で、それが私で、そういう時もあったと、いつか笑える日が来るといい。
暑さに抗うようにして、運動と散歩を繰り返している。口に入れる物をさえ厳選するようになり、身体にただしく作用すると面白い。10年前、頻繁に訪れた場所を改めてなぞると、自分の変化が顕著に見えて不思議な感じがする。混沌とした土地の渦に呑まれたくないと願いながら蝉の鳴く道を歩くと、アスファルトの地面に自分の汗が垂れ落ち、すぐに蒸発して消えた。
昔から、夏が苦手だ。年を追うごとにその感覚は増して行ってはいるものの、同時に必要な季節であるとも心得ている。焦燥も寂寞も奪い去る陽射しに、感謝することも少なくない。この夏が私にどう作用したかは、待たずともいつか答えが出る日が来るだろう。
06.2024
刷新されたかつての環境で自分の在り方を調整しながら、あらゆる意味で自分に必要なものをまた精査している。確実に以前とは何かが違うはずだが、それが明確に何であるかは、私にもまだ分からない。分からなくていいのかもしれない。
ひとつ確実なのは、物理的な持ち物の量が圧倒的に減ったということだ。身軽でいることの効能は、数え切れないほどある。だから私は時として、不必要な忍耐をあっさりと切り捨てる。資源は有限だ。ぼんやりしていると、自分にとって大切な要素を掴む機会をあっという間に失ってしまう。
煌めく出会いの代償か知らないが、また大きく体調を崩し、今回ばかりは打ちのめされた。紙やすりで擦ったような声しか出ず、ため息にすら咳が混じる。眠ろうと試みる前に意識を失い、夢と現実すらうまく切り分けられない。この先、生を終えるまで完膚なきまで病原菌を避けることなど不可能だと頭では分かっている。しかし愚かにも、それを切に願うほどには己の不調を呪った。
それでも、充分に眠ったおかげで休息を取れた。完治した身体を冷静に見つめ、平時の有り難みを知る。こわごわ外に出て深呼吸し、街を歩く。止まない雨はないと、ありきたりなことを思った。
05.2024
陽気の中に熱が交じる。日々強さを増していく日差しが、夏はすぐそこだと知らせているようだ。この場所で、季節の変化をただしく享受するのは難儀だ。歩きながら思索に耽ると、つい昔のことを思い出す。人格を形成する段階にあり、この地で費やした時間、出会った人々と、去って行った人々のこと。得て手放した、あらゆるものものについて。それはもはや追憶ではなく、誰か、別の人間の手記をなぞっているかのように現実味がない。
変化と入れ替わりの激しい都会は、砂でできているとさえ感じることがある。吹けば飛ぶほどに脆く、それを欠いたあとは、ざらりとした質感だけが手に残る。コンクリートと高層ビルに挟まれて気持ちまで硬化しそうになるが、負けたくない。何より、日々の継ぎ目に見る美しい景色が、未だ私を救う。そして今の私には、魂が還る場所がある。それはここではなく、空と海を経て渡る彼の地にほかならない。
他人の中に自分の要素を垣間見るようになったのは、いつからだろうと考える。もしかしたら、最初からどこにも隔たりなどないのかもしれない。世界を愛で包もうと試みると、そこは淡く光が差し、やさしい風が吹く。それで万事解決とは到底言えないのが娑婆だろうが、自分が足をつけて歩く場所のことくらいは肯定したい。
夜が耽け目を閉じても街が動く気配の止まないここは、人々があらゆる寂しさを誤魔化して過ごすのに丁度いいのかもしれない。誰にとっても、そういう時期があってもいい。かつての私がそうであったように。
04.2024
何度見ても綺麗で可愛くて、儚くて青空の似合う強い花—桜が咲いて、4年前のこの時期を思い出す。もう二度と以前の日常には戻れないのだろうかという、漠然とした不安に満ちた日々だった。「不要不急の外出」を避け、用事を済ませた帰りに車の中から眺めたこの花は、切なくも、やはり美しかった。
4年後の今、なんの遮蔽物も通さず木々を見上げて歩くと、だから無象の思いが込み上げる。春の空気を肺に満たし、時折立ち止まって幹に触れる。自分自身も含めて、すべては変化する。変化を止めることはできない。しかし、受け入れることはできる。絶望に見える景色の中からひと匙の光を掬い取れるようになったことは、この期間が生んだ大きな効能だ。
大いなる流れに促されて、6年間を過ごした場所へ、実に5年ぶりに帰ってきた。電車の中から街並みを見下ろす。この土地そのものに、劇的な変化は見られない。何かが大きく変わったのだとしたら、それは良くも悪しくも私自身だ。とりわけ、都会を都会たらしめる部分に触れると、すぐに体調を崩してしまうようになった。以前は平気だったと記憶しているが、ともすれば、平気だった頃のほうがどうかしていたのかもしれない。
しかし、住む場所を何度移そうとも、生活の基盤を整えて順応する速さは、以前より格段に上がった。日常の瑣末な積み重ねは、往々にして核となる本質へ繋がっていく。再び操を締め直す。さて、散歩へでも出かけよう。外は春の夜の匂いがする。
03.2024
春と冬を行ったり来たりするこの時期に、すっかり翻弄されている。我ながら、終わりと始まりを同時に迎えるのにふさわしい時期を選んだ。それなりの歴史を紡いだ人生の中で得た教訓のひとつに、引き際の大切さが刻まれている。きっと、惜しまれつつ去るくらいがちょうどいいのだ。
この頃は、以前よりもさらに移動を繰り返して、そのたびに考え事に耽っている。車窓から遠くの街明かりを眺めながら、思い出す景色はさまざまだ。移動が続いた疲れが祟って体調を崩したような気もするが、今はそういう時期なのだと決めて乗り切るしかない。ここへ来てもまだ、物理的にも精神的にも自分が少しずつ前進していると思えることが救いだ。
運と機会の両方に恵まれて、次の居場所が、かつて過ごした土地に決まった。留まり木の居心地がよく、存外長居したこともあり、身が引き締まる。環境を変えることの重要性を再確認するとともに、あの場所が決して私を甘やかさないことをも思い出す。
最小限かつ最低限、執着に近いほどそれらを抱きしめて、この数年間を過ごした。それが次の暮らしにどう作用するかは、まだ分からない。それでも、真剣に自己と対話すると、自分でも驚くほどの知恵が湧いてくる。流浪の身分でいる間に学んだことだって数えきれないほどあるのだから、今度も大丈夫だ。
持ち物は少ない。生まれ持った能力など、皆無に等しい。しかし私は、失いたくない記憶を相互に補完する体系を身につけた。自分の人生を愛しているくせに、そのことを折に触れて思い出さないと忘れてしまう阿呆のための、これもまた備忘録だ。
02.2024
神聖な儀式に始まった今月は、冷気に加えて霊気に身体が包まれている。空気の音に耳を澄ますと、僅かだか確実に、そこへ春が含まれている。日が長くなり、青空を眺める時間が増えたからそう感じるのかもしれないが。
列車に揺られて、ぼんやりとした頭で距離という概念について考えると、それがなにか、切なくも愛おしいものであると思えた。私は未熟だから、視野が狭くなるとすぐに自分を見失う。余裕を欠いて、大切な人々に対して心にもないことを口にする瞬間すらある。軸と指針を持っていると自負しているはずなのにこの有様だ。自分自身が弱く、どこまでも脆い存在だと認めなくてはならない。
そして、だからこそ距離に、そこに付随する時間と空間に、根本的な痛みをたびたび癒される。あらゆる事象から離れて今この瞬間に立ち返ると、過去も未来もあまりに遠く、まるで存在していないかのように思えるのだ。
公私を問わず無作為に人と会い、それぞれが持つ背景に意識を傾ける。見知った誰かが、はたまた見知らぬ誰かが、あらゆる悩みを抱えていてもなお、現在を平穏無事に生きているという事実もまた、私を救う。
途方もなく人間を、人間という生き物を愛していると思い知ったのはいつのことだったか、もう忘れてしまった。もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。もしくは、「最初」よりもずっとずっと前から、そうだったのかもしれない。そうでなければ、誰かとの関係性に傷つき悲しんでも、そういう自分ごと全部赦して受け入れてしまう私の在り方に、説明がつかない。
だから、何があっても、私は最終的に真っ直ぐ前を向く。この美しい世界に、光が差す限り。
01.2024
眩暈がして、身体から温度が失われていく。息がうまくできなくて、何か言葉を発しようとすると代わりに涙が出た。なぜ、という問いはどこまでも無駄で、虚空に消える。世界のすべてが緩慢に動く。悪い夢なら覚めてほしいと真に願ったが、それもまた無駄に終わった。
何も考えられなくなり部屋に篭ると、窓の外で雪解け水が流れる音だけが聞こえ、耳を澄ます。いつまでもいつまでも止まない音に、自分が生きていることをふと思い出し、立ち上がり窓を開ける。驚くほど冷たく澄んだ空気が部屋と肺を一度に満たし、否応なしに目が覚めた。私は、生きている。誰の代わりでもなく、私自身として。その事実を思い知りまた泣いて、涙の温かさを疎ましく思う。
地上の楽園について思いを馳せて久しい。私の心は常に「ここではないどこか」にあったが、今は「ここではない特定の場所」にある。こぢんまりとして清潔で、とても好ましい土地。完璧な場所などないこと、あったとしてそれが幻想であることくらい理解している、…つもりだ。
何より、逃避が即ち悪事とされるのは納得いかない。希望を失わずに生きていくために、人には心の拠り所が必要なのだ。時としてその対象と、物理的な距離があっても構わない。そして愚かな人間は、楽園に辿り着いてもまだ挑戦を続ける。約束された孤独を謳歌しながら、傷ついてもなお、何度でも立ち上がる。実に愚かだ。愚かで、美しい。
しかしまあ、現実にも目を向けることにしよう。凶器のように尖った太い氷柱に、風が吹くたび舞い上がる粉雪。うんざりするほど寒いが、愛すべき冬だ。これはこれで、なかなか悪くない。