白くてかわいい、ちいさな紙

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 突然だが、先日生まれて初めて自分の名刺をつくった。あらゆるメディアがデジタル・データ化の一途をたどる現代において(かつ、それに即したQOLの向上に余念がない身として)新たに紙ベースでなにかを作るとは思わなかったのだが、人生とはなにが起こるかわからない。

 そもそも今回名刺をつくるに至ったのも、先日の転職がきっかけだ。去り際に元同僚に連絡先を聞かれて、走り書きのメモで渡してしまったことが、我ながらスマートでなかったな、と反省したのだ。したがって、今後の人生でひとに連絡先を渡す際は、なんらかの様式美に則りたいと考えたのだった。

 そうと決まれば話は早い。例によってわたしは、大好きなインターネットの波を泳いで、名刺をつくってくれる業者を探した。当然、候補は無限に出てくるのだが、なにぶんこれが初めてのこと。しかもわたしは、れっきとしたビジネスウーマン(?)として生きたことがないから、紙の名刺が世のおとなたちにどれほどの需要があるのかをまるで知らないし、色んなアベレージもわからない。しかし、大きな失敗は避けたい。ということで、「なるべく安くて納期が早い」という基準を持ってたどり着いたのがラクスルというサービスだった。

 今回は、とりあえず最小ロットの100部で注文。価格を抑えたいから、出荷は3営業日後を選択した。ちなみに、これがかなりキモなのだが、「”受付日”から3営業日後」という表記は本当だった。というのも、わたしが会員登録・注文したのは、10月16日の23:50頃(性格が悪すぎる)。感覚として捉えれば「3日後」は20日が妥当なのだろうが、この会社は本当にきっちりしている。事実上の「3日後」、10月19日にはもう、完成した名刺はわたしの手の中にあった。配送方法を宅急便にしたとはいえ、仕事が早すぎる。メール便を選択するともう少しかかるようだが、そのぶん費用は抑えられるため、これは今後も適宜使い分けたいところ。


 現物の写真は上↑のとおり。デザインは、豊富に用意されたフォーマットのなかからシンプルなものを選び、3分程度で完成。外部データをひっぱることも可能だったから、ちゃっかりHPのQRコードを載せてみた。もちろんカラーも両面印刷もできるようだが、裏面をメモがわりにしたかったから、今回は片面モノクロ印刷。うん。シンプルでミニマル、気に入った。紙ベースのアイテムからひさしく離れていたが、あらためて手にとるとかわいくて落ち着く。現実世界でお会いする方、どうぞ一枚もらってやってください。

やめずに転職活動 Day.1

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 突然だが、本日付けで、今日までおよそ一年半勤めた会社を退職した。ワーク・ライフ・バランスが云々、などと謳われて久しいが、自分自身にまつわる「労働」ということにかんして深く考えたのは、思い返せばこれが初めてかもしれない。今日もそんな、とるに足らない記録のひとつ。題して、「やめずに転職活動 Day.1」。

 転職そのものを考えたことは、程度の差こそあれど、人生においては数えきれないほどある。その中には、前向きな理由も、後ろ向きな理由もあれば、理由という理由などないけれど、ただなんとなく仕事を変えたいという気まぐれすら含まれていた。しかし、結果的にそれまでの社会人人生で、わたしが会社を変えたのは三回。しかも、一度目は引き抜きによる業界内転職、二度目は独立(からの留学)、三度目はコロナ禍のあおりを受けた自主退職という、おそらく一般的にみればイレギュラーな事態が続いていた。とりわけ、完全な自分の意志で「A社からB社に乗り換える」というような経験をしたことは、今まで一度もなかったのだ。

 

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 ところで、インターネットの波を泳いでいると、ある種の洗脳さながらに、時折こういう文言を見かける。「脱サラして自由の身を勝ち取った」、「これからは好きなことだけやって生きていく」。たいていの場合、その先には怪しいビジネスへの誘導が待っているから、そんなものを真に受ける人はごく少数であると信じたいのだが、さておき。その背景には、雇われは悪、自営業こそ至高、という謎の文化が見え隠れしている。しかし、これには疑問を抱かずにはいられない。なぜならわたしは、会社勤めが好きだからだ。

 (14歳からその道を志し、実現させたうえで)写真の仕事に従事し、東京で生活していたこと。さらには、自らの意志で単身海外に居住したという経歴が、おおまかにはその先入観を生むのだろう。わたしは周囲から、「ふつうの人生には面白みを見出せず」「ルールに縛られずに生きることが好き」な人、だと思われがちだ。しかし、フタを開ければ日本在住・会社員の梅澤さんは、挨拶も身だしなみもきちんとしていて、基本的には無遅刻無欠勤、品行方正でもくもくと仕事をこなし、言われたことは真面目にちゃんとやり、そのうえで結果も残す(という評価を査定ではある程度受けてきたのだが、事実と異なったらごめんなさいね)。

 ということは、だ。特にこの頃は。まあ、なんと抑圧されて生きていらっしゃるの…さぞ日本の田舎での生活は退屈でお辛いでしょう…という憐憫の目を、これでもかと向けられる。が、ちょっと待ってほしい。誤解もいいとこである。まず第一に、海外生活すなわち自由、といった発想が出てくるらしいのだが、「郷に入っては郷に従う」ことのできない人間は、日本はおろか、海外でも生活できない。理由は簡単で、その国で定められたルールを守れない人間は、ふつうに捕まるし、最悪死ぬからだ。よくて強制送還、といったところか。

 そもそもこれは、「決まりごと」がなぜ存在するのか、という問いから始まる。多くの人は「ルール」と聞くと、自分たちを縛り上げるよくないもの、といったネガティブな連想をするようだが、おそらくは真逆だ。決まりごとは、その対象をどこまでも守るために存在するとわたしは思っている。だから、それを守らなかったら死ぬ、というのは大げさでもなんでもない。車両は右側通行、という道路交通法が制定された国で左車線を走ったら、対向車にぶつかって事故を起こすのは自明だ。生死には関わらないかもしれないが、もっとも根本的な「言語」の話をすれば、「文法」というルールを守って話さなければ、自分の主張は目の前の相手にすらただしく伝えられない。ルールは、相手と自分自身、両方を確実に守るためにこそ在る。

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 さて、パブリックイメージの話に翻る。たしかにわたしは、自由な人間だ。人の話はまるで聞かないし、なんだってひとりで決めて、タイミングが良ければそれを実行してしまう。しかしそれは、守るべきところは当然守ったうえでの話だ。自分が知りうる範囲なら、法を犯すことはまずない。時間も約束も、基本的には守る。ただしそれは、「ルールを破って誰かに怒られるのが嫌だから」ではないこともたしかだ。ただ単純に、遠くにぼんやりと見えている巨大なリスクを、手前の小さな段階でなるべく小まめに摘む作業を怠らない、というだけで(もしかしたら人はそれを、”真面目”と形容するのかもしれないが。)

 そして、わたしが会社員という身分を好む理由も、ここに起因する。社則というのは、もちろん会社の数だけ存在する。それらを、単に守るだけではない。そもそも、なぜ制定されたのか。どうしてこれが必要なのか。そうやってひとつひとつ観察し吟味していく機会は、会社員という立場でしか得られないのだ。もちろん、民間企業であればなおさら、それらすべてが、必ずしも万人に向けられたものではないだろう。笑ってしまうほどくだらない項目だって含まれているかもしれない。しかし、その取捨選択そのものの可否が、雇われている身、すなわち会社から守られている身分でなければ、少なくとも受け取れないのだ。

 わたしはたかだか1-2年ではあるが、カッコつけて言えばフリーランス、端的に言って自営業だった時期がある。だからこそ言えるのだが、「仕事」と名のつくものすべてを自分でこなしていた立場から見れば、「会社」という組織ほど尊ぶべき存在はない。ひとりで全部やっていると、そもそもどこからどこまでが仕事なのかわからなくなってくる。そのうえ、会社であればそれぞれのプロ(総務、経理、エンジニア、マネージャー、現場監督etc…)が担っているりっぱな職業に、必要とあらば自分が成り代わなければならない。この手の届く範囲ですべてが完結している、という点ではもちろん安心できるだろう。しかし、これを自由と呼ぶのなら、少なくはない対価を払っているのもまた事実だ。その証拠に、あらゆるフリーランサーがそうであるように、わたしも確定申告の時期が来ると胃痛が止まらなくなり、一日中胃薬を飲んでいた。

 …余談はこの辺にして、肝心の転職活動について書こうと思っていたら、ここまでが長くなりすぎた。次回へつづく。

iherb HAUL 2020.09

 「こだわらないことがこだわりです」という、人を食ったようなせりふがある。うまいこと言ってやったぜ、と言わんばかりのその言い回しに、かつては若干の苛立ちを覚えたものだった。しかし図らずも、わたしは今、この話題に触れる折にはそう表すしかない、という状況に陥ってしまった。

 生活用品一般。とりわけコスメやスキンケアといった、自分の肌に癒着するアイテムに、わたしは昔から、どうしても情熱を向けることができない。もう本当に、考えたくもないほど面倒くさいからだ。化粧したくないがために外出を諦めた休日がこれまで何度あったことか、数えるのも嫌になる。そもそも絶望的なまでに興味がない。いつか不慮の事故で頭を強く打ち、そのおかげで美肌への探求に目覚めるようなことがあれば革命が起こるのかもしれないが、今のところ予定もない。とにかくわたしは、この分野について考える時間をなるべく減らしたいのだ。買い物の回数も少ないに越したことはない。

 しかし、だからといってほんとうに、「何を使ってもいい」わけではないことも分かっている。どうせ使うなら、地球にも身体にも可能な限り負担のかからないアイテムを選ぶのがベターだろう。とはいえわたしは億万長者でもないから、オーガニックに傾倒するあまり、ひとつひとつが高価になりすぎてご破算しては本末転倒である。やっぱりお値段も、笑顔が損なわれない程度には抑えたい。

 それから、これはわたしにとってもっとも重要な項目なのだが、一度使い始めたものは、「ある程度世界中のどこにいても、望めばいつでも手に入る」と非常に助かる。というか、そうでないと困る。もしもこの先、突然マルタ島に住むようなことがあったとして。日本から持ち込んだ愛用の日焼け止めが切れてしまい、わたしはこれしか使えないのに!という事態に陥ったとして。代用品がないために黒焦げ必至、という状況は、できれば避けたい。

 今回はそんな、地球と自分とお財布にやさしいアクティブ合理主義(超ワガママな筋金入りの面倒臭がり)の願いをかなえてくれる、言わずと知れた海外通販、iherbでの購入品紹介だ。各所で噂には聞いており、ずっと使っては見たかったもののなかなか手が出ず、ようやっと重い腰を上げたのが2020年の11月だった。それで非常に満足したため、2021年の6月にもまた買い物をした。その2回で買ってみた商品のほとんどすべてをリピート買いしたのが今回だから、いくらか説得力があるのではと思う。

 前置きが長くなりすぎた。それでは、ひとつひとつ詳しく振り返る。

 

Heritage Store ローズウォーター&グリセリン 237ml

 購入2回目。もちろん化粧水として使用しているのだが、スプレータイプになっているのが何しろありがたい。やさしくて上品で、かといってあとを引かないバラの香りも良い。国産の安い化粧水を使っていた際、肌がつっぱったりピリピリしたりという経験を幾度となくして、化粧水とはそういうものなのだと思い込んでいた。が、これを使い始めてからそういうたぐいのストレス全般が消えたから、あれは当たり前ではなかったのだという学びを得た。

 そして先日、美容室を訪れた折、美容師さんから「ほんとうはみんな、顔だけでなく頭皮にも化粧水を使ってほしいんですよねえ」と諭されてから、真面目なわたしはお風呂上がりに頭皮にもシュッシュとやっている。全身に使えて、言うことなし。毎日ジャブジャブ使っても3ヶ月は持つからコスパも良し。レビュー件数12952件、評価★4.5。

 

Now Foods ソリューション スイート・アーモンドオイル 473 ml

 これは化粧水をスプレーしてすぐ、保湿に使用している。厳密にいうとリピート買いではないのだが、前回買ったものよりこちらのほうが評価も高ければレビュー件数も文字どおり桁違いで、逆になぜ前回べつの商品を買ったのか謎である(興味がなさすぎて覚えていない)。正直言って、ピュアアーモンドオイルならなんでも良いからこれにした。これも顔、髪にくわえ、全身の乾燥が気になる箇所すべてに使っているが、これが原因でトラブルになったことは一度もない。何なら、むしろこれでトラブルが減った。色も香りもなく、これ一本で一年以上持つ(!)から、メーカーの採算が取れているのか心配になるレベル。

 ひとつだけ難点をあげるとすれば、どうあがいても液漏れして、気づくとボトルがヌルヌルになっているところ。置き場所には気をつけられたし。レビュー件数は驚異の45,721件、評価★4.5。

 

Think Thinkbaby SPF 50+ 日焼け止めクリーム 89 ml

 購入2回目。自慢ではないが、「サンスクリーンヘイト選手権」にエントリーした場合(?)、スタートの合図とともに全力ダッシュをキメたとしても、2位以下に周回遅れの差をつけたまま単独トップでゴールできる自信が、わたしには、ある。そのくらい日焼け止めが嫌いなのだ。あの独特なにおい、キシキシする使用感、きわめつけに、顔に塗ったのを忘れて目をこすった日には、催涙スプレーを浴びたのかというほど染みるではないか。わたしが何をしたというのだ。現代の拷問といって差し支えない。

 しかしながら、だ。日焼け止めと並んでわたしは、残念ながらファンデーションのことも毛嫌いしている。「ファ○キンファンデーション決定戦」に出場を決めた際の話は今回は泣く泣く割愛するが(?)、猫も杓子もマスク必須のこのご時世において、布という布をベージュに汚すアイツを顔に塗布するくらいなら、わたしは死ぬまで外出などしない。

 というわけで、顔面への紫外線を何らかの形では防がねばならぬ場合、若干ではあるが日焼け止めに軍配が上がる。そこで、数多の商品を探しに探し、レビューというレビューに目を通し、これならかろうじてストレスを最小限に抑えて使えるのでは、と踏んで買ってみたのが、これだった。結果、大当たりだった。もうわたしはこの商品が生産され続ける限り、おそらくこれしか使わないだろう。

 こちら、商品名のとおり、赤ちゃんの肌にも使える成分で作られている。にも関わらずSPF50+ を記録できるのは、快挙といわずして何と言おうか。ちなみにこれを使う以前、国産のクリームタイプの日焼け止めを顔に、首から下の身体には別の国産メーカーのポンプ式日焼け止めを塗っていたのだが、顔に使っていた方は廃盤になり、身体のほうは両腕が砂漠のように乾燥し粉を吹き始めたから、大人しく全身Thinkbabyを使うことにした。無事、人間の腕にもどりました。

 朝のスキンケアをする際、ローズウォーター→アーモンドオイル→この日焼け止め、の順番で塗り、上からルースパウダーをはたいてそのまま出勤するから、いわばこれがファンデーション代わりにもなっている。テクスチャーが硬めで若干伸びが悪いことと、つけた瞬間はやや白浮きすることもあり、外出の少し前に塗ることにしている(時間が経つとなじむ)。ヨーグルト味のお菓子めいた香りがして、これが好みの別れどころかもしれない。わたしはその香りをいたく気に入り、継続使用を決めたのだが。レビュー件数11,676件、評価★4.5。

 

California Gold Nutrition Gold C ビタミンC 500mg ベジカプセル240粒

 購入2回目。と言いたいところだが、前回は含有量1000mg、今回は500gを買ってしまったことに、今これを打ちながら気が付いた。完全にミスった。まあいいか。

 ビタミン系のサプリメントは、気分でメーカーを変えながら、ここ5年ほどは飲み続けている。iherbといえばサプリメント、というイメージを持つ人は多いと思うが、わたしもそのうちのひとりである。ビタミンCについては風邪予防と肌荒れ防止、と思いながら飲んでいるが、なかばプラセボのようなところがあるかもしれない。この値段でこの量なら文句ないから、これからも飲むけど。レビュー件数9683件、評価★4.8。

 

Sundown Naturals B-コンプレックス タブレット100錠

 初購入。元々の体質もあるのだが、そこに歯列矯正を始めてしまったことがトドメを刺し、口内炎のエレクトリカルパレードと化しているわたしの口内。すがるようにしてビタミンBのサプリメントを買った。Amaz○nで買ったチョ○ラBBがまだ残っていて、それも別に不足はないのだが、面倒だったからついでにポチった。レビュー5721件、評価★4.8だから、問題はないだろうが、乞うご期待。

 さて、以上がこの度の、iherb購入品と雑感であった。リスト形式のリンクはここから飛んでいただける。クーポンコード DVN9537 を入力してもらえれば誰でも割引になるから、もしよろしければ(どうしても嫌だったら適当にググって、信用できる他の人のを使っていただきたい。ただただ値引きになるだけなのだが、なんか怪しいわいという気持ちもわかるから)。買い物の頻度が次第に上がっているところを見ると、早くもハマりつつあるなという自覚が芽生えているから、次回のHAULもたぶん、そんなに遠くはないだろう。それではまた。

※当記事の掲載情報はすべて、2021年10月13日現在のものです。

わたしとインターネット

 

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 1992年うまれ・ミレニアル世代のわたしが、インターネットとあゆんだ軌跡をたどるシリーズ。今日はいよいよ最終章、「わたしとインターネット」。読むも語るも、お疲れ様でした。

 さて、必要に駆られて勢いのまま本名フルネームのドメインを取得し、HPを作成したわたし。無論、今も運用しているこのサイトにほかならないのだが、この時点ではまだ、それまでに撮影した写真の作品と簡単なプロフィールを載せておくに過ぎなかった。しかし、前回までの投稿を読んでくれた懸命な方なら、このことがわたしにとってどれだけの意味と重さを持つかは、想像に難くないだろう。

 ちなみにその後、大事なことを思い出してボスのHにも伝えたのだが、チェコには学生ビザで滞在していたわたしは、課外時間で得てもいい収入に相当な限りがあった。HPを作るきっかけを与えてくれたことには今でも本当に感謝しているが、そもそもここで、フォトグラファーとして本腰入れて活動するつもりは毛頭なかったのだ。結局、Hと彼が率いるコミュニティに属する仲間たちと一緒につるんで、国の機関から怒られない程度に、遊び半分仕事半分のような活動を続け、それはそれで何物にも代えがたい時間を過ごしたのだが。

 しかし、楽しい時間は永遠には続かない。以前にも軽く触れたとおり、あらかじめ期限付きだったチェコへの滞在。まだまだ記憶に新しい、2020年の2月。わたしが日本へ帰国するのと時同じくして、地球全体が、忌わしきCOVID-19の犠牲者となってしまった。怒涛のごとく世の中が変わっていったのは、言うまでもない。「当たり前」のことなど何ひとつ存在しないのだと、人類皆が思い知ったことと思う。

 そうした環境の変化もあり、(多くの人がきっとそうであるように)わたしも今まで以上に、仕事以外の時間ほとんどすべてを使い、自分自身と向き合って過ごすようになった。COVID-19がもたらした数々の悲劇を肯定するつもりは死ぬまでないが、前を向いて歩き続けるためには、これもいい機会だと自分に言い聞かせるほかない。帰国直後から半年ほどは毎日、自分ひとりで悶々と考えては表現の方法を模索していた。何かできることが、探せば必ずあるはずだ。そう考えていたのは、もちろんわたしだけではなかった。コミュニケーションや仕事のあり方に対する変化に柔軟に対応できる人びとが、インターネットの利点をどんどん活用しだした。それに応じて、人間関係や物事のあり方は、いかようにでも形を変えた。身近なところでいえば、ほとんど電子製品アレルギーだったと言ってもいいわたしの実母や祖母までもが、あらゆるデジタルガジェットやオンラインサービスを使わずには、満足に生活できないまでになった。

 そこにはもう、かつてのオンラインとオフラインの間にあった強固な壁など、ほとんど存在しない。目には見えていたとしても、軽く叩けばすぐに壊れてしまうほどの脆さになっていた。少なくともわたしの目には、そう映ったのだ。

 何をどういう形で発信していこうかと考えている間、今まで使っていた「ゆめ」のアカウントも、本名であるこのアカウントも、半年ほどは両方眠らせていた。そして、こういう風にやってみよう、と、ある種の決意を固めたわたしが名乗ることにしたのは、産まれたときに両親が与えてくれた、本名のほうだった。これが、2020年の8月。ドメインはそのままに、よりシンプルなデザインに変えて、このサイトを個人のHPとして再始動することにした。それからは、コンテンツを少しずつ増やし、コツコツと更新を重ねる毎日。主として日記を書き、そこに自分で撮影した写真を添えるスタイルは、わたしがインターネットで発信を始めた15年前と、結局何も変わっていない。しかし前とは、すべてが違う。今は自分自身の実感だけでしかなかったとしても、積み重ねればきっとそれは、他者にも波及する。そういう、静かだが熱い確信が、わたしを支配していった。

 そんな折、「風の時代」という言葉を、やたらと耳にするようになった。2021年を迎えて間もなくのことだったと思う。詳細については、わたしよりもずっと詳しい方々がそこら中で情報を公開してくれているからここでは割愛する。ただ、とにかくこの価値観が、今後も継続してわたしがやっていきたいことと、こうありたいと渇望するライフスタイルに呼応した。さらなる知性の追求。それから、物質的なものにとらわれず、自由にいきていくこと。インターネットとの関わり、という側面から見て、最後の最後まで捨てられなかったものと、わたしはこのタイミングで、決別することにした。

 忘れもしない、2021年3月31日。およそ10年にわたり、ずっとずっとその本体を守ってくれた「ゆめ」というもうひとつの名前を、わたしは手放した。そして、主に発信していたInsatgramのアカウントに始まり、それに付随する、「ゆめ」として契約していたすべてのサービスを解約した。それは同時に、今後はどこにいても何があっても、自分の名前を冠した著作物、そのすべてに対して自分自身で責任を取ることを意味する。わたしはそれを、自分を重く縛り痛めつける鎖だと、ずっとずっと信じて疑わなかった。だから、怖かったのだ。一度電波の波に乗せたら、半永久的にそれがデータの世界に残るということ。自分が表現したものを、見ず知らずの相手に届ける形で発表するということ。どうして怖いのか、自分が一番わかっていた。それがわたしの、一番やりたいことだからだ。

 だとしたら。

 だとしたらそれを全部、逆手に取ればいい。ただ誠実に、残す価値があるものを作ればいい。どこかの誰かが知りたいと思ってたどり着く、情報のひとつになればいい。後ろめたいことがないなら、堂々としていればいい。それでも糾弾されることがあったとしたら、自分の非を認めて、素直に謝ればいい。反省して、また前を向いて、成長し続ければいい。ただ、それだけ。ひとつひとつと向き合っていけば、現実のこの世界と、何ひとつ変わらないじゃないか。

 −そう覚悟を決めて挑んだら、壁は、簡単に壊れた。

 今、わたしの目の前には、ただどこまでも広く広く、青い海と空が広がっている。この途方もなさが、かつての自分を苦しめていたことを絶対に忘れない。だって、だからこそわたしは、自分の選択次第でどこへだって行けるのだということを、わたしは自由そのものなのだということを知ったのだから。

 いとしのインターネット、今までありがとう。きっとまだまだ色々あるだろうけれど、これからもどうぞよろしくね。

 

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インターネット3.0 -ver.2-

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 1992年うまれ・ミレニアル世代のわたしが、インターネットとあゆんだ軌跡をたどるシリーズ。前回が思ったよりも長くなってしまったため、慌てて分割したのだが。ともあれ続けよう、「インターネット3.0 -ver.2-」。

 これはあらゆる角度から鑑みてそう感じるのだが、わたしはとにかく幸運に恵まれて生きている。歩くだけでラッキーを引き起こす体質は、東京に住み始めた途端にその本領を発揮し、それからもしばらく続いた。というのも、Cさんを始めとして、インターネットを介して出会った人たちと、そのあと何人か立て続けに、実際にお会いする機会があったからだ。一緒に上京した高校時代からの恋人と付き合い続けていたこともあり、相変わらず異性には目もくれず、わたしが会って親交を深めたのは、みんな同世代の女性だった。要するに、この時点でわたしにとって、ひととの出会いと関わりは、それがインターネットだろうが現実世界だろうが、相手を選べば何も変わらないものになっていったのだ。ただひとつの差異と言えば、インターネット上では依然として、仮の名前を名乗っていたこと。よって、そこから出会って仲良くなったひとたちはみんな、わたしのことを「ゆめちゃん」と呼んでいた。

 そんな折、専門学校の同級生が、FacebookなるSNSの存在を教えてくれた。詳細を聞けば、そのSNSはなんと、本名フルネームで登録するのが前提条件とのこと。かつ、基本的には、現実世界で実際に関わりのあるひとたちと、オンラインでも繋がるのだという。お察しの通りだが、わたしはパニックになった。なおちゃんもやろうよ〜!と友人は後押しするのだが、ちょ、ちょっと待ってほしい。インターネットで、実名を用いてプライベートな投稿をするの?しかも、知り合い向けに?なんで???というのが、当時の感想だった。眉をひそめるわたしに友人は、自分のページやら共通の友人たちのページやらを、危なくないよとばかりに見せてくれた。こわごわ覗いて、なるほど、日記つきの履歴書みたいなもんね、と解釈したのを覚えている。気乗りはしないが、まあ試すだけならいいか、と流されるまま登録したFacebookは、結局その後ほとんど運用しないまま、1年ほどで中華系スパムにアカウントを乗っ取られ、二度と使うもんかと即退会したのだが。

 何しろ、「SNS」が本格的に台頭し始めたのが、ちょうどこの頃だったように思う。見渡せばもう、みんながスマホを使っていて、TwitterでもInstagramでも、「友達になったらお互いをフォローする」ことが当たり前になり始めていた。ちなみにわたしがTwitterを始めたのは2008年、Instagramを始めたのは2012年だから、当然どのサービスも、仮名の「ゆめ」で登録していた。アカウントは他に持っていなかったし、やましいことや誰かの悪口を書いていたわけでもないから、リアルの友人に求められたら、若干の違和感を覚えながらも、ふつうにそのアカウントを教えていた。そんなわけでわたしのフォロー/フォロワーは、実際に会ったことのあるひとと、そうでないひとの割合が、この時点で半々くらいになった。ストレスこそなかったが、とにかく、時代が変わってきている、という実感だけが、そこには静かに存在していた。

 そうして専門学校を卒業し、そのまま写真の道へ進み、わたしは社会人となった。この辺りから、時代の移り変わりもさらに顕著になった。実際、社会人になったあとの交友関係は、オンもオフもごちゃ混ぜだった。オフラインの友人を連れて、オンラインで知り合った友人が営む店に遊びに行くなどというのはザラで、インターネット上で気になった展示会に足を運び、作家さんと生身で会うことになっても、もう良くも悪くも、最初ほどの衝撃も感動もなければ、大きな落胆もない。合うものは合うし、合わないものは合わない。「インターネットだから」ダメ、ということも、「現実だから」オッケー、ということも、ほとんどなくなった。オンラインとオフラインの垣根は、わたしだけじゃない。多くの人たちにとっても、ほとんど消えつつあったのではないだろうか。

 ただひとつ、個人的にはまだどうしてもこれだけはできない、ということが、ひとつだけあった。実名での発信だ。リテラシーやプライバシーの観点から、というのはもちろんだが、もうこれは長らく身体に染み付いた習慣のようなものだった。理由はないが、ただただ、やっぱり、あり得ない。この時点でも、「ゆめ」名義での発信は途切れることなく、手法を変えメディアを変え、細く長く続けていた。説得力を持たせるために、ほとんど顔出しまでして動画投稿をしていた時期もあった。それでも、名前だけは。「ゆめちゃん」に守られているから、わたしはここまで来られたのだ、という思いがあって、どうしても、手放すことができなかったのだ。

 さて、この時期、ゆめちゃんを盾にした現実世界のわたしはといえば、8年間の東京生活と6年間の社会人人生をいったん区切り、チェコ共和国は首都プラハへの、一年間の渡航に踏み切った。初めての海外生活は、当然のことながら怒涛のごとく過ぎていった。何しろ、わざと知り合いが一人もいない場所を選んだおかげで、等身大の自分自身で何もかもに挑まなければならなかった。くわえて向こうは、よっぽどオフィシャルな場でない限り、仲良くなったらファーストネームで呼び合う文化。ほとんどすべてを手放して、着の身着のまま日本を飛び出したわたしのことを、次第に増えて行く友人たちはみんな潔く、「Nao!」と呼んだ。それまでの暮らしでは、苗字をもじったあだ名で呼ばれることが大半だった。大人になってからもそれは続いたし、長らく「ゆめ」を名乗ったせいで、わたしは自分がNaoだということを、なかば忘れかけていたのかもしれない。

 そんなプラハでの生活が半年ほど続いたころ、わたしはとあるミュージシャンの男の子と知り合った。この男、とにかく他人を惹きつけては相手の懐に滑り込む才能に長けていて、いくつものクリエイティブなコミュニティに属しているボスのような人だった。そして、わたしが日本で写真の仕事をしていたと知るや否や、その可能性を秒速で買ってくれた。同時に、なぜもっとそれを活かさないのかと憤慨し(怖い)、君がやらないなら俺が仕事を探す!といきみ出した(怖い)。

 当然、二言目に出てきたのは(意訳だが)「で、ポートフォリオは?」という台詞だった。やばい、と思ったが、チェコ語が堪能でないうえに嘘もつけず、「ごめん、今はない…日本に置いてきちゃった…」と正直に伝えた。ああでも、データならあるから、やろうと思えば作れるけど…と小さい声で付け加えて。すると彼は眉ひとつ動かさず、「そう。じゃあ作って俺に見せて。金曜までに」と吐き捨て、そのまま帰ってしまった。

 

 −水曜の、午後である。

 

 ぽつねんとひとり取り残されたわたしは、呆然と立ち尽くしたまま真っ青になった。ちょっと待ってくれ。金曜に渡すとしたって、あと二日しかない。頭の中で計算した作品は、絞ってもざっと30点ほど。それらすべて、レイアウトを考えてプリントを依頼し、大急ぎで製本したとしたって、…間に合うわけがない。半泣きだったが、とにかくわたしはその勢いのまま、文房具屋へ走った。余談だが、チェコに滞在している間、こういう不条理な目に数え切れないほど遭った。慣れることは最後までなかったが。

 そしてその日、思いつく限りのチェコ語で検索を重ね、プラハ中を駆けずり回り、行ける範囲の写真屋と文房具屋、その他の商店に訪れては探したものの、ポートフォリオににちょうどいいブックが、まず見つからなかった。明日もう一度探そう、と思ってくたくたになりながら帰宅したときには、もう夜中だった。

 −翌日。個人の努力では限界を感じたわたしが泣きついたのは、おっかないボスと共通の友人である、デザイナーカップル(現在は夫婦)だった。「頼むからお茶しよ!!!」と謎の呼び出し方をし、快く出てきてくれた彼らには未だに頭が上がらない。涙目でエスプレッソを流し込むわたしから、開口一番「ポートフォリオ用のブック売ってるとこ知らない!!?」と聞かれた彼らは揃って、まったく合点がいかない、という顔でわたしに聞き返す。以下意訳。

「ねえNao、それ何に使うの?」

「金曜までに用意しろってHに言われたの」

「Hがブックの形でくれって?」

「…いや、そうは言ってなかったけど…」

 あれ、なんか雲行きが怪しい。静かになったわたしになんと伝えようか、目の前のカップルはやや気まずそうな顔を見合わせていたが、やがて優しくハモリながら言った。

「「いやそれたぶん、Webでしょ…」」

 その言葉を聞いて、自分の勘違いが恥ずかしいやら、もう走り回らなくてもいい安心感から気が抜けたやらで、わたしは大きくため息をついて天井を仰いでしまった。嗚呼、なんたる悲劇。ありとあらゆるメディアが電子ベースと化した現代において、この小さな東洋人は、もっともアナログな方法で自分の作品集を拵えようとしていたのだ。…いや、でも、待てよ。と、天井を見上げたまま考える。そうだとしても、だ。この時点で、木曜の午後。紙だろうが電子だろうが、残された時間はあと1日しかない。目の前の彼らも同じことを考えていたらしく、Webサイトだったら、僕たちで作ろうか?と提案してくれた。神様か。

 しかし、そのありがたい提案は、ていねいにお断りするに至った。HPなら、自分でなんとかできる。経験則と直感が、そう叫んだからだった。コーヒーを飲み干し、本当にどうもありがとう、ちょっと今から頑張るわ!と立ち去るわたしに、やさしい彼らは最後まで、幸運を祈ってくれた。だから神様かて。

 そうして大急ぎで帰宅したわけだが、勝算があるのには理由があった。ここへ来て未だに、いろんなプラットフォームを試しに使って発信してみていたわけだが、中でももっとも長く続いていたのが、独自ドメインを取得したワードプレスのブログだったのだ。幸い、お金を出して買った日本語の教本まで手元にある。もちろん、既存のアカウントは仮名で登録していたから、ポートフォリオサイト作成にあたっては新たにドメインを取る必要がある。とはいえ、新たなキャラクターを構築する時間もなければ、何よりその文化(?)を、ボスである彼に理解されるはずもない。もう、迷いはなかった。本名そのままに、naoumezawa.comのドメインを取得し、大至急HPの作成に取り掛かる。Webサイト運営に関しては、何年続けても未だに素人の域を出ないまでも、久しぶりに徹夜したおかげで、翌日、金曜の昼過ぎにはなんとか形になった。何度か自分で見直して、例の彼にURLを送る。あれだけプレッシャーを与えておいて(と、わたしが勝手に感じていただけだが)「サンキュー。見とくわ!」という爽やかな返事が届いて、もう言葉も出なかった。しかし、ともあれ重大なミッションを終えたわたしは、やっとの思いでMacBookと、自分の瞼を閉じたのだった。

インターネット3.0 -ver.1-


 1992年うまれ・ミレニアル世代のわたしが、インターネットとあゆんだ軌跡をたどるシリーズ。第三回のきょうは、いよいよ佳境。題して、「インターネット3.0 -ver.1-」。

 「ゆめ」としてブログを更新する日々が続き、ささやかではあるが、インターネット上に自分の居場所ができ始めたわたし。公私ともに(?)充実した日々が続き、あっという間に高校三年生となった。ということは、だ。いよいよ卒業後の進路について、決定しなければならない時期が近づいていた。

 しかしながら、工業高校のデザイン科に在籍し、依然としてCさん(当時は関西圏在住の美大生だった)を崇拝しているわたしの選択肢は、そのテの道に進む以外あり得なかった。それこそ最初は、本当にCさんを追いかけて関西の美大に通おうとしていた。が、就職のことを考えても、長期休みには地元新潟へ帰りたいという観点から見ても、東京に進学するのがベターなのではという結論に至る。今回の本題はインターネットについてだからこの辺りはいったん端折るが、結局わたしは専攻を「写真」に絞り、東京の専門学校への進学を決めた。大学のように大掛かりな受験はないから、願書を提出して入学が決まったあとは、もう残りの高校生活をエンジョイするだけだった。

 さて、東京に単身移るということは必然、生まれて初めての一人暮らしが始まる。これから上京する数多の若者の例に漏れず、わたしも都会暮らしに無限の可能性を感じ、期待に胸を膨らませたものだった。何よりこの時期、インターネットとの間に、また新たな関わり方が加わった。高校卒業が決まったわたしに(もちろん欲しがったからではあるが)、両親がiphone4を買い与えてくれたのだった。世間的にもこの頃、ちょうどガラケーからスマートフォンへの過渡期を迎えていたと思う。

 その後、無事に高校を卒業し、東京への引越しを終える。つるつるぴかぴかのiphone片手に、つるつるぴかぴかのおのぼりさんの、都会暮らしが始まった。何もかもが真新しかったこの頃、入学した専門学校で、放課後に始めたバイト先で、次から次へと新しい友達ができた。学校で使うからと称して、iphoneに加えて新たにMacBookを買ってもらったこともあり、「ゆめ」として続けているブログに書くネタは、毎日尽きなかった。

 そんなキラキラの数週間が続いた折、突然の機会が巡ってくる。なんと、わたしが高校卒業・上京したのと時おなじくして、関西に住んでいたCさんもまた、大学卒業・就職で東京に住みだしたというのだ。しかも、TwitterのTLを更新して仰天したのだが、彼女が卒業制作で焼いた映像作品のDVDを、欲しいと希望する人には郵送し、もしもできるなら直接会って、手渡しすると言い出したのだ。

 わたしがそのお知らせを、読んだままの勢いでCさんにコンタクトを取ったのは言うまでもない。気さくなCさんはすぐに返事をくれ、わたしが渋谷の学校に通っていると言うと、じゃあ数日後に、渋谷で待ち合わせましょうと約束してくれた。

 

 約束の日、渋谷西口モヤイ像前。

 

 できる限りのおしゃれをして、喉から心臓が出るのではないかと思うほど緊張しながら、約束の時間より30分も早く待ち合わせ場所に着いて、付近を当て所なく歩き回っていたわたし。余談だが、いくつかの「生まれて初めての経験」に天から恵まれていると自覚しているのだが、今にして考えても、これもそのうちのひとつだ。当然ながら、「インターネットを介して実際に人と会う」という経験は、これが人生で初めてだった。それが、しかも、14歳から憧れに憧れ抜いた、神様みたいな人と会えるなんて。もう今日が終わったら死ぬんだろうなわたしは、ていうか一生来ないんじゃないかなCさん、だとしたらそれはそれでいいな、夢は夢のままで…などと悶々悶々考えながらモヤイ像と対峙するわたしの背後で、そのとき誰かが、わたしを呼んだ。

 

「ゆめちゃーん!」

 

 その声に、ハッとして振り向く。声の主を視認した瞬間に、思った。

 

 (妖精だ…。)

https://naoumezawa.tumblr.com/post/647078349630570496

 −今はどうか知らないが、少なくともその当時、わたしたちが待ち合わせをした渋谷駅西口のそのエリアは、喫煙所が設置されており、常に臭くて煙かった。というかそもそも渋谷という街に対し、とてもじゃないが清潔な印象を抱いた試しなど一度もない。Cさんに会った、その瞬間を除いては。

 もう、とんでもないのだ、Cさん。まずその「場」の不浄さを、一瞬で帳消しにした。それどころか、ありきたりな表現をすれば、完全にCさんの周りだけお花が舞っていた。というか、この世界に存在するお花畑はすべてCさんに起因すると言われたら、一瞬で信じる。小さくて、華奢で、やさしくて、かわいくて、ニコニコしているピンクの妖精さん。その本物の、破壊力たるや。Cさんについて、事前にある程度の想像をしてきてはいたものの、そんなものはとっくに彼方へ飛んでいってしまった。

 しかし、そこまでの衝撃を味わうと、かえって人は冷静になるのかもしれない。何かが弾けたわたしは、想像よりずっとかわいくて素敵な方で安心しました、というような、わりかしまともな文言をCさんに投げかけたような気がする。謙虚な妖精は謙遜していたが。

 それから、立ち話もなんだし…と、我々は二人で、手近なカフェに入った。向かい合ってお茶を飲みながら、ありとあらゆる話をしたあと、一応本題のDVDの話になる。するとCさんが、わたしの自宅がここから電車で一本だから、家で一緒にその作品を見ないかと提案してくれたのだった。無論、二つ返事で承諾した。

 初対面の相手を自宅に招いて、相手も拒否せず受け入れるという状況。この部分だけを切り取ると、見方によっては道徳的にありえないのかもしれない。しかし、わたしはこの辺りから、自分が心から信じた相手になら、言ってしまえば何をされても構わないというか−その時々の自分の選択に対する覚悟を、決めてきたのかもしれない。もちろんそれは、最初の相手がCさんという、徹頭徹尾人格者である優秀な女性だったという運の良さも多分にあるが。

 ともあれこのあと、わたしは本当にCさんの自宅に伺う。抜かりなくかわいいお部屋で、一緒にDVDを見ながら、未だに死ぬまで宝物と思える時間を、その日さよならする瞬間まで過ごした(余談だが帰り際、最寄駅の改札まで見送ってくれたCさんは、わたしの姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。こんな人がふたりと存在するだろうか)。そして、Cさんのおかげでわたしは、自分が素晴らしいと感じたひとやものは、誰がなんと言おうとやっぱり素晴らしいのだと、かつ自分のその感覚を、信じていいのだという確信を、このときに得たのだと思う。

インターネット2.0


 1992年うまれ・ミレニアル世代のわたしが、インターネットとあゆんだ軌跡をたどるシリーズ。第三回のきょうは、「インターネット2.0」と題して続けていく。

 前述のとおり、神様Cさんと一方的な出会いを果たしたわたし。Cさんみたいなひとになりたい、という願望以外ほとんどすべての自我は消え失せ、いても立ってもいられなくなった。とにかく行動に移さなければ、と考えた結果、とりあえず、インターネット上でなにか発信できないか、という模索が始まる。

 実を言うと、それまでも数回、無料のレンタルサーバーを使ってブログやHPの作成を試みたことがあった。しかしそのいずれもが、同じくパソコンを持つ数少ない学校の友人と遊び半分で共有したに過ぎず、もちろん更新も続かなかった。ただし、今回はわけが違う。この時点ですでに、わたしがコンテンツを届けたい相手は「顔も知らない、彼方のひとたち」に取って代わっていた。

 2000年代初頭(というと広すぎるかもしれないが)のインターネットといえば、一般人が実名で発信するなど、まだまだ本当にありえない時代だった。14歳のわたしが本名フルネームでブログを書いてインターネットで公開することと、全財産を置きっぱなしにした自宅の不在を自ら泥棒に大声で知らせることの、なにが違うというのだろう。大げさではなく、当時はそのくらいに感じていたのだ。慎重すぎるほどのわたしのITリテラシーは、思い返せばここで完全に培われたのだが。

 したがって、まずはハンドルネームを決めることになる。当時のわたしにとって、インターネットは現実と乖離した、非現実の−いわば「夢」のようなフィールドだった。じゃあ、それでいい。漢字にするのもなんだかな、と思ったから、ひらがなで「ゆめ」。まさか軽い気持ちでつけたこの名前を、その後十余年も使うことになろうとは当然思いもしないのだが、それはまた追々。

 名前が決まったところで、今度はプラットフォームを構築しなければならない。以前に遊びで得た知識に、今度はひとりで肉付けをしていく。帰宅してから夜中まで、自分の知りたいことに関して、あらゆる角度から検索を重ねた。色んなサーバーを使ってみながら、試験的にブログやホームページを作り、タグをひとつひとつ手打ちしてはF5キーを打鍵して、きちんと反映されているか確認していく、地道な作業が続く日々。このときの、ささやかな変化に喜びを覚える感覚と辛抱強さは、確実に今に通ずるものがある。(余談だが、おおよそこの時期から、わたしはウェブサイトを含む他人の創作物一般を、「受け手」としてではなく、「作り手」として研究するようになった。)こうして試行錯誤を重ねるうちにあれよと時は流れ、結局Cさんを真似た「写真付き日記」を公開するに至る頃には、わたしは中学校を卒業し、高校生になっていた。

 そんな折、忘れもしない出来事が起こる。完全にパソコン中毒のアイデンティティが形成されたピカピカの高校一年生のわたしが、現代社会の授業、第一回目を受けているときだった。話題の一環としてだろうが、先生がクラスに向かって「えー、この中で、ケータイ持ってない奴いるか〜?」と投げかける。当然、いない前提で訊いているに決まっているにも関わらず、スッ…と手を挙げた生徒が、たったひとりいた。わたしだった。無論、狼狽した。わたしも先生も。まあ家庭の方針とか色々あるよな、みたいな感じで先生にはお茶を濁されたが、大変気まずい思いをしたわたしはその日に帰宅するや否や、親にケータイを買ってくれるよう打診した。高校生になったら持たせてあげるつもりだったのに、あなたがいらないって言ったんでしょう…と母親は呆れていた。おっしゃる通りである。

 慌てて買ったシロモノだったが、ひとはいくつになっても、いったん新しいおもちゃには夢中になるのかもしれない。一週間後に受け取った、ピンク色のパカパカ開くちいさくて薄いガラケーは、それはそれでパソコンとは違ったかわいらしさがあった。その時点でクラスメイトがとっくに終わらせていたメアド交換に遅ればせながら参入し、女子高生らしく、友人たちとの取るに足らないやり取りを楽しむ日々が始まった。

 しかしながら、だ。それでもやっぱり、わたしにとって「ケータイ」は、なにかを表現する場所ではなくて、単なるコミュニケーションツールだった。顔見知りの知人と会話の延長をそこでも続けているに過ぎず、とてもじゃないが、それを使ってなにかを発信する気にはなれない。結局、高校生になっても帰宅後のわたしは、お尻から根が生えたようにパソコンの前から動かなかった。

 匿名でブログを書き始めてから、1~2年が経った頃だろうか。「Twitter」なるサービスが、愛読しているブロガーさんたちの間で流行り始めた。なんだか分からないが見よう見まねでわたしも登録し、なんだか分からないまま「読書なう」とか「課題だん」とかつぶやいてみる。今これを打ちながら、あまりのくだらなさに頭を抱えているのだが、当時はなにか、とんでもない大人の遊びに手を出したような、謎の高揚感があったのだ(みんなもそうだったと思いたい)。この遊びが「SNS」という括りに区分されると知るのはそれから数年後の話なのだが、ともあれここで、一方通行だったコミュニケーションに、変化が生まれる。「フォローする/される」という機能が当然そうさせたのだが、「知らない人にコンテンツを見せる/知らない人からそれを受け取る」だけだったインターネットで、わたしは知らない人と、交流するようになったのだ。

 (これは今もそうだが)そもそも”恋愛”に対して比較的興味がないことと、矛盾するようだが、中学時代の同級生とお付き合いするはこびとなり、生まれて初めての彼氏ができたこの時期のわたしは、インターネット上の異性には目もくれず、同世代の女の子たちとばかり仲良くさせてもらった。おのおのが自分のHP

なりブログを持っていて、お互いのリンクを自分のページに貼って紹介していた。ただし、お互いのプライバシーについては深掘りしないのが暗黙の了解で、無論みんな、仮の名前を名乗っていた。

 注釈しておくと、わたしは学校が、特に高校は、大好きだった。「一日だけ過去にもどれるなら」というたとえ話にひとはしばしば花を咲かせるが、わたしは間違いなく高校三年生の、なんでもない一日を選ぶだろう。だから決して、なにかの逃げ場や隠れ蓑としてインターネットと接していたわけではなかった。そもそも運営しているブログも、登場人物や地名を伏せて日々あったことを題材にしているのだから、これは言うまでもないのだが。

 しかしこの頃たしかに、現実世界のわたしとインターネット上の「ゆめ」は、人間性に差異こそないが、完全に別の世界で生きていた。そして、その二つの世界は、交わることなんてなかったのだ。

https://naoumezawa.tumblr.com/post/649238346384785409

インターネット1.0

 1992年うまれ・ミレニアル世代のわたしが、インターネットとあゆんだ軌跡をたどるシリーズ。きょうは第二回、題して「インターネット1.0」。

 さて、前著のとおり、やさしい父のはからいで「いつでもおうちでインターネット」環境がととのった。ということはすなわち、同級生とEメールでのやりとりがはじまる。当時のわたしといえば、友人たちの影響で、マンガをよく読むようになっていた。もともと活字は好んで読むほうだったが、「おもしろいからこれ読んで!」と、みんながいろいろ貸してくれるので、素直に夢中になっていった時期だった。したがって、帰宅してから友達とメールで何を話すかといえば、今読んでいるマンガはどれだとか、あのマンガのキャラクターはどうだとか、そんな他愛もないことに終止する。くわえて、「メールを交換できる=インターネットも使える」というのは、わりと周知の事実だったようだ。おとなになりだしたわたしたちが、自分の興味を持った分野にかんする知識を、インターネットをつかって掘り下げていくのに、そう時間はかからなかった。

 そうしてインターネットの波を泳ぎだし、最初にたどりついたのが、二次創作サイトだった。今でこそSNSが浸透し、Twitterやinstagramなど、あらかじめ用意されたプラットフォームで自分の作品を展開していくのがあたりまえになった。しかし、当時の主流はまだまだ「ホームページ」。今にしてかんがえると、その頃のクリエイターさんたちは、絵や文章の技術と同様に、サイト構築のスキルも当然のように持ちあわせていたのかとおもうと、頭があがらない。

 「マンガのキャラクターを、作者以外の方が描く」という行為。それはわたしにとって、クラスにいる絵のじょうずな友人が、プリントの裏や黒板にササッとやって見せてくれるもの、に過ぎなかった。それがどうだ。インターネット上には、魔法使いとしかおもえない表現者たちが、わんさかいるじゃないか。しかもみんな、見やすいようにじぶんの作品をHPでアーカイブして、なにより無料で公開してくれている。中学生のわたしからみれば、さながら全員プロだった。どうしてこれにお金を払わなくて済むのだろうと、当時は半ばふるえたものだった。

 こうしてしばらく、学校から帰宅後はパソコンにかじりつき、「受け手」として、二次創作界隈は絵も文章もひととおり巡回した。だんだんと勝手がわかってきたのだが、みんなじぶんのサイトを見てもらうために、きちんと工夫している。SNSほど拡散力をもったツールがなかった当時、HPを知ってもらう方法はかぎられていた。そのうちのひとつが、(今も存在はするのだろうが)「ランキング」。各ジャンルごとに「ランキングサイト」なるものが存在し、そこに登録すると、その分野に興味をもった人が、自分のサイトにアクセスしてくれるのだ。

 ここでまた、いったん現実世界にひるがえる。くりかえすが、それまでのわたしにとって「表現の場」とは、学校の文化祭か、よくて文科系の部活に入って応募する「展覧会」に過ぎなかった。ただし、中学生だからってバカじゃない。自分が一生懸命作品をつくっても、それを評価するのはどこぞの知らないおじさんたちだということくらい、ちゃんと知っていた。現実なんてそんなもん。それにくらべて、インターネットときたら!きちんと的を絞れば、丹精こめてつくった作品が、自分の見てほしい相手にちゃんと届くのだ。それも、相手はクラスメイトじゃない。世界だ。可能性も自由度も、ケタが違いすぎる。

 「多感な時期」の少女が、そんなインターネットに夢中になるのは自明の理だった。そしてこの時期、わたしは運命の出会いを果たす。それはいつものごとく、鬼のように増えたブックマークにすべて目を通したあと、ふらりとランキングサイトにアクセスしたときだった。なんの気なしにクリックした「日記サイト」の「10代女性部門」。サイト名の横にアクセス数の表示があったのだが、1位のサイトだけが群を抜いていた。これはちょっとなにか、特殊なツールでもつかってアクセス数を稼いだのでは…と疑うような数字にひるむが、好奇心が勝って、そのサイトに飛んでみた。

 それが、ズルして獲った数字でないことは、一目見た瞬間にわかった。”C(仮名)”と名乗る女子高生が、自分の日常を、スナップ写真とともにつづる−まさしく「日記」。言ってしまえばなんてことはないのだが、彼女のあらわすものすべてが、今までわたしが見たことのあるどんなものより鮮やかでみずみずしく、かがやいていた。

 わたしの世界が、一瞬で、彼女の色に染まった。

 目の前でぱちぱちと、火花が散るような気持ちがした。

 何よりも、衝撃だったのだ。じぶんとさほど変わらない年の女の子の、なんてことない日常が、切り取り方や残し方ひとつで、こんなにもだれかに、影響をあたえることができるなんて。ファッションも個性的なら文章も魅力的だったが、彼女の撮る写真は、その比ではなかった。それまでのわたしにとって、写真とは、「おじさんが山に三脚を抱えて夕日を撮りに行く」ものであり、なんというか、シブい趣味のひとつ、だったのだ。でも、Cさんはちがった。かわいくて、きれいで、おしゃれで、個性的で、女の子がほしいもの全部持って生まれてきたお姫さまが、じぶんの暮らしをお戯れに、われわれ庶民に見せてくれている、そんな魅力があった。

 Instagram全盛の今でこそ、何気ないものをかわいく撮ってインターネットに載せたり、レイアウトに統一感を持たせてアーカイブすることは、ほとんど礼儀のひとつと言っていいまでになった。ただ、しつこいようだが、当時はちがった。そんなことをできるひとはまだまだ数すくなかった。Cさんはわたしの、そういう「はじめて」を、全部かっさらっていったのだ。

 神様が現れた、と思った。つづけて、こうも考えた。

 Cさんになりたい。こんなふうになれたらもう、ほかになにもいらない。

 わたしの、将来の夢が決まった瞬間。忘れもしない、14歳の夏だった。

https://naoumezawa.tumblr.com/post/647081773174554624

はじめてのインターネット

 1992年生まれ、いわゆるミレニアル世代のわたしが、はじめてインターネットに触れてから、およそ20年(!)が経つ。ふりかえってみると、体感上、だいたい10年スパンでおおきな変化が起きている気がする。二度目の革命が起きた(と勝手におもっている)のがごく最近のことだから、今日は自分史に即して、わたしとインターネットのこれまでのあゆみをここに残しておく。

 記憶にあるなかで、インターネット…いや、まずはパソコンから行こう。わたしがはじめてパソコンにさわったのは、小学校のコンピュータールームだった。機械がそれを放つのだろうか、視聴覚室はいつの時代も独特のにおいにつつまれている気がするのだが、さておき。

 パソコンといえば、当時はまだ箱型の巨大なモニターと、これまた箱型の巨大な本体がセットになっていた。キーボードの叩きがいも尋常ではなかったし、打鍵音は、「パチパチ」や「カタカタ」ではなく「ドカドカ」がただしい。マウスも、あれでよくダブルクリックなんぞしていたなとおもうほどのつかい心地だった。そのくらい、とにかくひとつひとつがデカいのだ。にぶいし。そして、いま思い出しながらもはや涙が出そうなのだが、データを保存する場所といえばフロッピーディスクだった。…フロッピーディスクて。ちなみにわたしは、生まれてこのかた「エモい」という形容詞をつかったことがないのだが、フロッピーディスクの名前をだしたいまこの瞬間、その感情がめばえた。あれは、うん、「エモい」シロモノだとおもう。

 巨大な箱を目の前に、先生から指示されるがままに、キーボードをドカドカ鳴らしながら取るに足らないテキストファイルを作成し、フロッピーディスクに保存していた。というのが、だいたい小学校1~2年生くらいの記憶だ。

 つぎに本題、インターネット。小学校中学年にあがった当時のわたしは、例によって学校の、視聴覚室にいる。部屋のなまえが「コンピュータールーム」でなくなった理由は、それまで住んでいた埼玉から、地元新潟にこのタイミングで引越し、転校したからだ。

 ある日の授業で、「自分の将来の夢(=なりたい職業)について、インターネットで検索する」という課題が出された。検索エンジンはたしか、gooだったと思う。当時、どうぶつのお医者さん−すなわち獣医になりたかったわたしは、それっぽいキーワードを入力し、いくつかのページに目をとおした。そのときに得た「北海道大学には獣医学部がある」という知識は、いまだ鮮やかに残っている。獣医さんにはならなかったが、インターネットというのは自分の知りたい情報をおしえてくれるものなのだ、という衝撃たるや、ほんとうに、ものすごかったのだ。

 それまで、なにか知りたいことがあったら、ひとに訊く or 本を開く という2種類しかなかったわたしの選択肢に、あらたにインターネットが参入した。これはおおきな躍進だ。わたしとインターネットの関係性はこのようにして、「情報」の授業でパソコンとインターネットに触れ、見知らぬだれかが投下した情報をときどきあつめながら、その後しばし平行線を辿る。

 転機がふたたびおとずれたのは、中学校にあがったころだ。機械につよい同僚をもつ父親が、彼のつくったという自作PCをかかえて帰宅した。その頃のわたしはすでに、パソコンをさわることそのものがちょっとカッコいいと思っていたから、学校から帰ったら時間がゆるすかぎり、初期設定で内蔵されているゲームで遊んだり、ペイントソフトを無意味にいじくりまわしたりしていた。なにがどうということはないのだが、とにかくさわっていたかったのだ、パソコンに。

 それからほどなくして、ケータイを持っているクラスメイトのあいだで、メール交換がはやりだした。友達から、「なおちゃんケータイもってないの」と聞かれて、ケータイはないなあ、とぼんやり答える。ほしいという気持ちもなくはなかったが、中学生のうちは買ってもらえないだろうとおもっていた。泣きわめいて親を説得する方法もあったのだろうが、そこまでの熱量はケータイに注げない。なにより、この瞬間にもパソコンが、家でわたしの帰りを待っているのだ。もうこのときは、とにかく何をしていても家に帰ってはやくパソコンにさわりたかった。

 そんな折、べつの友達が、「なおちゃんパソコンもってるの!?」と訊いてきた。パソコンは、ある。ちょっと得意げに答えたら、なんとその子は、メール交換はパソコンでもできるのだと言い出した。な、なんだって。ちょっとお父さんに訊いてみてよ、といわれたから、了承して帰宅する。

 くわしい流れは失念したが、父に訊いたところ、インターネットを引けばメール交換ができるとのことだった。インターネットって、自分が知りたいことをおしえてくれる、あの便利なシステムのことか?とかんがえてハッとしたわたしは、この時点でメールのことはほとんどどうでもよくなっていた。そんなことより、インターネットが家にいながらつかえるなんて、もうこれは大事件である。できたらうれしいな、ということがもう、いうまでもなく顔に書いてあったのだろう。娘思いの父はそこから2~3日のあいだに、いとしのパソコンで、わたしがインターネットをつかえるように手筈をととのえてくれた。

 こうしてみると、この世代にうまれた人間が、インターネットに触れるまでのよくある一例のようにおもう。ああそうだった、なつかしいなとおもってもらえれば幸いだが、わたしとインターネット編、まだまだつづく。聞くも語るもたのしいフェーズはこの先に待っているから、乞うご期待。

https://naoumezawa.tumblr.com/post/660838414777761792

はざまの時間について

 

https://naoumezawa.tumblr.com/post/649238346384785409

 ここ何回かに渡って書いている、4月に入学した通信制大学について。そこに至るまでの経緯を、いまさら説明しておこうと思う。

 私がチェコ共和国での遊学を終え、COVID-19の影響を受けずに済んだスレスレのタイミング(いま考えれば本当に、本当に奇跡だった)で日本へ帰国したのが去年、2020年の2月1日。地元新潟へ帰ってくるなり、インターネットで適当に仕事をさがした。みつけたのは、これまた半分遊びの延長かのようなスキー場ちかくの求人。決まるや否やバッグひとつ持ってそこへ住み込み、真っ黒に雪焼けするまで毎日スノボに明け暮れた。

 ゲレンデが閉まるとともに、そんな冬休みともリハビリともつかない仕事を終える。そのあとは、あれよと実家へ転がり込み、4月はまるまる本物のモラトリアムと化した。

 で、5月。家から片道15分ほどで通える仕事にありつき、フルタイムのフリーターとなった。何かと融通を利かせてくれる上司と気のいい同僚たちに恵まれ、この仕事は未だに続いている。今の会社に入社して半年ほどで、仕事の合間に勉強する習慣を身に付けた。それから緊急事態宣言の合間を縫って受験した2度の英検は、2度とも無事に合格した。

 以上、頭の中を整理するために最近のことをざっと書き出したのだが、日本での大学への編入を考え始めたのは、実はもっとずっと前。チェコ共和国はプラハに住んだ年の夏、2019年の6月頃だった。

 遊学、とはじめに銘打ったとおり、私がプラハで通っていたのは単なる語学学校だった。言い方は悪いが、お金を払えばだれでも通えて、イコール魅力は、自分が望んだ期間のぶんだけビザが取れること。大人になってから自分の意志で単身海外へ住むとなったら、妥当な手段だろう。そして、プラハでの生活にあらかた慣れてきた頃、欲を言えばわたしは、もっともっと勉強したくなっていた。

 そうなると、「外国語を学ぶ」のではなく、「外国語で学ぶ」ことに本腰を入れたいところ。チェコにかぎらず、英語圏への移住も視野に入れて、現地の大学への正規留学を考え始めたのは、まちがいなくこのタイミングだった。しかし、そもそも1年間と決めてビザを取得したから、ハナから日本への帰国は決まっている。移住した場所が気に入ってそのまま住み着いてしまう人だって少なくないだろうが、わたしとしては、この時点でその手段はピンと来ていなかったのだと思う。くわえてこの期間、数多の留学記を読みあさり、諸先輩がたの経験談や失敗譚に片っ端から目を通していたわたし。そこで得た教訓として、まあ言わずもがなといえばそうなのだが、やっぱり留学を終えた後の目標がないと、燃え尽き症候群のようになってしまうというのだ。わたしはそれが、本当に怖かった。だから。

 ここでの生活を思う存分満喫したあとは、一度日本へ帰国して、準備の末にもう一度外へ出ていこう。

 それがこの時点でわたしが自分に下した、現在につながる決断だった。

 本当にこの時期、留学生の先輩たちが書いたブログはすべて目を通す勢いでインターネットの海を泳いだ。中でもレジェンドのような方が書かれた記事が、のちの私に、大いに影響をあたえることになるので以下にリンクを貼っておく。主としてアメリカ渡航を専門とする、留学コンサルタントの栄陽子先生が書かれたコラムだ。

https://www.ryugaku.com/info/sakaecolumn/syougakukintofirstfood.html

(※もっとも読んで欲しい記事ではないのだが、該当記事が見つけられなかったので一旦これで失礼する。見つけしだい貼りかえておく。)

 私が「放送大学」という単語を拾って意識しはじめたのは、彼女が書いたコラムを読んだのがきっかけだった。この記事によれば、まず日本で働いて留学資金を貯めながら、そのあいだに通信大学へ通い、しれっと単位を取っておいてしまおう、というのだ。あまりにも現実的、かつ合理的すぎて笑ってしまう。いまとなっては、留学費を極力抑えたい受験生たちの手段として決してマイナーではないようだが、当時のわたしは衝撃を受けた。というか、膝を打った。なるほど、そういう方法もあるのかと。しかし、もっとも驚いたのはそこではない。この情報を公開しているのが、海外留学の”受験生”ではなく、それを”斡旋する側”ということだ。

 コンサルの立場からみれば、目先の利益だけを考えたら、借金させてでも生徒を現地の大学へ送り込んで、さっさと留学させてしまう方が手っ取り早いのは自明だ。しかも相手が、なにも知らない純粋な若者ならなおのこと、言いくるめるのは簡単だろう。しかし栄先生は、どこまでも現実的なのだ。手段もそうなら、本人の言動も。メリットもデメリットもきちんと説明したうえで、それでも行きたいなら全力でバックアップする、という姿勢を辞さないのだろう。

 わたしの話に戻る。彼女のおかげで、プラハ在留中に早くも、日本へ帰国後の大方のビジョンがみえた。つぎの留学先がどこへ決まってもいいように、帰国したらまず、英語を勉強しなおす。ずっと逃げていた車の運転も、ここでモノにする。ダイエットもするならこのタイミングだろう。それから、お金に余裕があれば、ずっとやりたかった歯の矯正と、永久脱毛もしておく。そしてなにより、大学に編入して、日本の大卒資格を取っておく。そうと決まれば、もう迷わない。

 以上が、留学中に悶々と脳内で繰り広げられていたわたしの未来予想図だった。ちなみに、まさかここまで忠実に再現されるとは思わなくて、誰よりもわたしが驚いている。それから、たしかに落ち着いてじっくり勉強したいとは思っていたけれど、まさか凶悪なウイルスが全世界を支配して、旅行はおろか自宅からの外出自粛を余儀なくされるなどとは、つゆほども思っていなかった。

 しかし、だ。いつだって、探せばできることは絶対に、どんなに小さくたって見つかるはず。絶望して立ち止まることは、希望を持って歩き続けるよりもずっとずっと簡単だということを、わたしは知っている。わすれてはならないのは、一番のライバルも一番の味方も、家の外じゃない。いつだって、鏡の中に住んでいるということだ。

 

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