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11.2022

 いくたびもの別れを経て、木枯らしの吹く季節がやってきた。陽の光は繊細さを増すばかりで、誘われるままにいつかの日々を思い出し、否応なしに郷愁を覚える。仮にもここが生まれ育った場所なのだから、それが矛盾であることくらい理解している。しかし思うに、故郷は、いくつあったって構わないのではないか。出生地と異なる場所に魂が還る場所を持つことが、特段に稀有な例だと、私にはもう思えない。いくつもの土地で過ごした経験は、今や時代の風に煽られ、その真価を加速させる。

 形あるものなど、もうこの先何ひとつ望まないと心に固く誓ったその日から、その代償として、目に見えない大きな力が確実に機能し始めた。目の前に提示される課題は、時として目眩を覚えるほど大きい。そのあまりの威力に、今でもときどき肉体や精神が追いつかない。それでも、容易いことを退屈しのぎに潰す日々よりはずっといい。私はいつでも難解な問題を愛していて、複雑でなければ挑む価値もないとすら言える。…なにも最初からそう感じていたわけではなく、自分に言い聞かせているうちに、その感覚が板についたのかもしれないが。

 揺らぐ自我を観察し始めて久しいが、帰属意識の所在についてもまた、同時に考えている。言語が及ぼす脅威は言わずもがな、それに付随する文化の持つ特異性も見逃せない。いったい何が私を私たらしめるのか、その答えと思えるものを掴んだと思っても、指の隙間からするりと抜け落ちてしまう。もしかしたら最期まで、答えなど知らなくてもいいのかもしれない。それでも私は、自分をただしく愛する過程で今日も足掻いている。

 自分が「多数派」の感覚からまるでかけ離れていると自覚したのは、果たしていつのことだったか。自ら異端を謳うつもりなどさらさらないが、奇異な存在として扱われる違和感は、ここへ来てもまだ拭えない。しかし、逸脱した者は、孤独と引き換えに得られる自由という特権を持っている。居場所は、なければ勝手に作ればいい。それがたとえ、光の届かないような暗い暗い海の底であっても。はたまた、鳥すら飛んでこないような、空高い雲の上であっても。

 

10.2022

 深まる秋は、すでに冬の気配を隠さない。触れるものすべてが神秘的な静謐さを孕んでいて、だから私はこの淋しい季節を愛している。そしてそんな歯切れの悪い時期に、しかしキリの良い数字と共に、私はまたひとつ歳を取った。もちろん、それを契機として何かが劇的に変化したわけではない。むしろ、この齢の人間はもっと完成されており、もっともっと大人に違いないと思っていた。そして私は、多くの人々がそうであるように、ちょうど成人する頃にも、きっと似たようなことを感じていた。

 とはいえ、子供の頃とはまるで違う景色を見ていることもまた事実だ。当時と同じ対象を観察していても、当然ながら今のほうが、より仔細な部分まで理解できる。理解したうえで、軽くあしらうことも、水に流すことすらできる。深海魚が持つ怪しい襞のように複雑で甘美なものごとでさえ、その魅力に付随する理由までもをきちんと発見できる。

 言い換えれば、いくぶんか、ある種の諦めがついたのだろうと思う。どれほどの経験や年齢を重ねても、私は所詮私の延長でしかない。別の人間になるわけでもなければ、他の誰かになる必要などハナからないということを、きっと真に受け止めたのだ。自らの感情の起伏を懐柔してしまうだなんて、つまらなくて勿体ないと誤解していた時期も、恐らくあった。そんな若さゆえの過ちさえ丸ごと愛してしまえるほどには、私は私を、少なくともきちんと生きてきた。そしてこれからも、私は私として生きていくのだ。自分の至らなさに、時折心を砕かれながら。

 「多様性」という言葉が持つあまりに強い魔力に、ここしばらく本気で頭を悩ませている。誰かを救うために必ず誰かを犠牲にしなければならないというのなら、そんな仕組みはどうして存在するのだろう。誰もが幸せに暮らせる桃源郷は、ならば一体どこにあるのだろう。ほとんど夢想に近い思念を抱いて、私は今日も三次元の世界を彷徨い歩いている。一度何かを知ったら、それを知る前には二度と戻れないという事実もまた、何らかの魔法に違いない。

 それでも。できることは、少ないが零ではない。自分をただしく護ることができれば、同時に他者をも護れると願っている。たとえその方法ひとつひとつが、ため息で飛ばされてしまいそうなほど心許ないとしても。集めて束ねて固く結べば、簡単には折られないほど強くなると信じている。愛ある大人たちに育てられた大人の私は、自分の身を護るたくさんの術を知っている。ならば私ももう、立派な魔法使いの仲間入りだ。

 

09.2022

 ここはきっと、夏の終わりで、同時に秋の入り口だ。遣る瀬無い焦燥感に差し当たり決着をつけたはいいが、今度は何をするにも淋しさが纏わりつく。私自身を取り巻く環境がそうさせるのか、はたまた季節の変わり目に依るのか、それはわからない。両方かもしれない。とにかく、目眩を伴う暑さからは解放された。今はそれだけで充分だ。

 それにしてもこの頃は、予測のできない事態がいくつも起こり、輪をかけて予測のできない方向へ進行していくばかりで辟易する。大抵のことには抗わないと決めて神様に任せ、為すがままに生きていた筈だが、甘かった。大いなる存在は、まだまだ愚鈍な人間を弄ぶことを止めないらしい。

 それでも私は、以前に比べれば自分の身体をうまく使えるようになったと自負している。だから今は、また新たな枷を自分に課した。戯れの中に、戯れを作ること。踊らされる前に、自ら踊ること。何ごとも狂気を孕む笑顔で迎え撃ち、いずれは玩具に変えること。ほら、やっぱりそう考えるとどんな状況も環境も、単なる遊び場にしかなり得ない。

 挑戦し、努力を重ねたことが結実して、いよいよ自分自身の手足へと姿を変える。そういう貴い経験をいくつか重ねた私は、それはそれでまた迷う羽目になってしまった。選択肢が増えるということは、同じ数だけの選択と、決断を迫られることを意味する。困ったことに、自分を愛すれば愛するほど、どの可能性も魅力的に見えるのだ。あれも面白そうだ、これも捨てがたいと逡巡するのはいい。しかし、時間は有限だと言うこともまた、同時に忘れてはならない。

 それでも、どこまでも全てが希望に満ちていると思えるのは、きっとこの世界が優しい光に包まれていると気がついたからだ。争いも懸念も、最終的には意味のある結果に接続させていく。その確信と覚悟が、絶望を斬るためのしなやかな武器となり、同時に誰かを護る盾となる。そう信じている。

 

08.2022

 一日、また一日と、夏が終わりに近づいていく。しかし、おかげで暑さにやられた頭は、ようやく調子を取り戻し始めた。この好機を逃すまいとばかりに、自分自身の適正な居場所について考える。私はきっと、望めばどこへだって行けてしまう。そしてある程度なら、何だってできてしまう。だからこそ、どこへ行き何をするか葛藤する。これはきっと、自由を手にした者なら誰でも陥るジレンマだ。使いこなせない者が翼を与えられても、却って萎縮するだけだ。それを大きく広げて羽ばたくことなどできない。

 そして結局、救いとなるのは自分の経験則だったりするのだから始末に負えない。しかし私は、もう嫌というほど知っている。迷っているうちは、まだだということも。本当に必要なことは、本当に必要なときに向こうから必ずやってくるということも。ときにそれが、目下望まぬ結果を招いたとしても。綿密に練られた舞台の脚本のように、最終的にすべての伏線は、必ず劇的に回収されていく。

 単なる気休めだと分かっていても、目を閉じ耳を塞ぎたくなる瞬間というのは未だにある。ばつが悪いのは、大いなる存在の意図を知りながら、故意にそれを無視したようなときだ。ほとんどの場合において、因果関係はそこへ回帰する。まるでため息が出る。何より、そういう時期は大人しくしていればいいものを、まったくもってこの年になっても私はきっと、夏という季節とうまく折り合いがつけられないのだろうと思う。ますますため息が出る。

 したがって、今年の夏もまた私は、「何もしない」という選択ができずに終わった。散漫な集中力で挑んだせいで、着手したことのほとんどは悪あがきじみた結果に終わる。我ながら呆れるばかりだが、まあ、それもまた一興といえばそうなのかもしれない。どうかこの愚行が未来には形を変えて、美しい思い出のひとつになることを願う。

 

07.2022

 今年もまた、忙しない空模様に大人しく翻弄されている。降りしきる雨と照りつける太陽の光を交互に浴びながら、愚かな人間の体力はただただ消耗していくばかりだ。暑さは疲労を誘発する。それが主たる理由かは分からないが、幾度か試みた束の間の現実逃避は、悉く失敗に終わった。抗いようのない運命を自覚して以降、いつしか私はその渦中にいて、立っているのがやっとだ。どうやら観念した方が良さそうだと、今度こそ思い知る時期なのかもしれない。

 結果として、皮肉にも自分自身と向き合うことを、また私は余儀なくされる。さらに納得のいかないことには、いくつもの大きな功績を、私は私に対して残してしまった。これではまるで、手綱を結ばれているのが私なら、それを握っているのも私自身ではないか−と呆れる。しかし、まるで思考がその先へ及ぶのを阻むようにして、地上の熱は私の意識を曖昧に溶かしてしまった。…まあいい。いつものように、すべてを夏の所為にしてしまえば、それで。

 今にも落ちてしまいそうなほどの危うい均衡を保ちながら、私は今日も懲りずに錯綜する文化の狭間に居る。「移動」という経験に乏しい土地に生まれ育って久しいが、それを補って余りあるほどの体験を、私はきっと重ねてきた。それがゆえに、いつでも気がつくと少数派の岸に立っている。こちら側に辿りつくためにはどうしたらいいのかと意見を求められることもあるが、正直言って、どうしたらいいのかは私にもわからない。知る必要もないように思う。規格外として生きることは、きっと向いている者とそうでない者とが存在するのだ。逆もまた然りで、そこに優劣はない。

 迷えるこの自我は、果たしてどこへ回帰していくのだろうと観察しているものの、結論が出るのはまだしばらく先のようだ。そうだとしたら。そうだとしても。気長に待てばいい。そんなことを考えながら、気まぐれに水面を見下ろしては、きらきらと泳ぐ魚に餌を投げたりなどする。たとえ何かが欠けていたとしても、時間は充分にあるのだから。

 

06.2022

 人間は誰しも、他者に対して自分自身を投影するものだ。分かってはいたが、瞬きするたび、これでもかと思い知る。理想、情念、憎悪、欲求、願望、嫉妬、そして純然たる愛。数えきれないほどの要素は、万華鏡が作り出す景色のようにくるくると表情を変えながら、今日も私に降り注ぐ。雨あられと五感で受け取った欠片たちは、しかし私を再構成するのに必須の成分だ。そして、人間は同時に、他者の存在なしでは生きられない。それもまた、抗いようのない事実だ。

 そんな前提を掲げたまま、気分の上がる装飾品をいくつか新調した。ときどき顔を覗かせる太陽に、このちっぽけな存在を知らせるために、そして、身軽になってゆくこれからの季節に彩りを足すために。春のざわめきは辛うじて余韻を残しつつ、夏はまだ本番とは言い難い。思いがけず浮き足立つが、ほんの少しの悪戯なら。きっと時には悪くない。何より雨が、最終的にはそのすべてを流してくれるだろう。

 ほとんど習慣であるかのように、私は今日も思索に耽る。それは往々にして過ぎ去った日々についてであり、未だ来ぬ日々についてである。何事も、見事なまでに何ひとつとして、物事は想像通りには進まない。それでも愚かなこの魂は、救いを求めて答えを探したがる。

 結果として、いつもは読まない種類の本に手を出し、内容を噛み砕いて整理するために、殊更ぼんやりとして過ごした。ある種の病理と捉えていることの実態を知りたくて、苦悩するばかりだ。しかし、その正体を解き明かしたところで、私に何が出来るのだろうか。始まりと終わりは、一体どこにあるのだろうか。不明瞭さに全身を絡め取られて、ああ、今日もまるで身動きが取れない。

 それでも、はっきりしていることがいくつかある。「大人」として生きる責任を、私は果たさなければならない。拾い集めた光を、純度の高いまま供給し続けなければならない。新たに生まれ、紡がれゆく物語を、終わらせてはならない。絶対に、何があっても。

 

05.2022

 寄せては返す波のような日々に、辟易する。抽象的な事象の曖昧さが、いっそう際立つ時期なのかもしれない。それにしても、膨大な量の向き合うべきものごとを前にして、ただ項垂れることも少なくなかった。いっそ、この対象にさっさと見切りをつけてしまえば−という考えが脳裏を過ぎる。悪くはない提案を、それでもすんなりと飲み込めないのは、これが私に課された試練であると自覚しているからだろう。そしてそれが、自分の使命に接続されていることも。

 地道な訓練が身を結び、ここのところの私は、何が起こっても、別の個体に準拠することはほとんどなくなった。何においても指標はすべて自分の中に在り、単に示される光と聞こえる声に従えばいいだけなのだ。ただし、並行世界への逃避行については、まだしばらくは許してほしい。きっと近い将来、それすらも必要としなくなるだろうから。分かっているから今はまだ、この瞬間に、身を寄せていたいのだ。

 思えば、愛すべき新しい時代の訪れも、この季節だった。目に映るものすべてが光を帯び、淡く艶やかに春を謳う。生命の芽吹きに圧倒され、そして煽られるようにして私は、相変わらず走り続けている。事実は小説よりも奇なり、とは言ったものだ。かつての自分では到底叶わなかった目標が、敵わなかった相手が、まるで過去などそこに存在しなかったかのように、今は小さく、容易く感じる。更新され続ける価値基準に、目覚め続ける世界に、今はまだ、喜びを覚える。

 それでも、私は未熟だ。道端に伸びる草をちぎってそのまま嗅いだような青臭さは、悔しいが、きっと残っている。そう自負するから、何事も続けなければ気が済まないのだろう。続けて、手に入れたものを離さずに磨かなければ。せめて、この勘が鈍ることのないように。直感が、冴え渡り続けるように。

 

04.2022

 いつの間に、と思わず呟いて空を仰ぐ。遅咲きの桜は、咲き始めに気付く間もなく満開を迎えていた。同時に、世界中の人々が過敏に尖らせていた神経を、少しずつ緩ませていくのを感じて安心する。鮮やかに広がる現在と比較するための過去として、「去年」というのはありきたりな指標だ。春の陽射しを燦々と浴びながら、一年前のことを思い出す。何もかもが変わってしまったような感覚と、微塵も変わってなどいないような感覚は、相変わらず私の中で混在している。しかし、自分の内部で交錯するその矛盾を追放せずに、曖昧な春の気温と風に溶かせるようになったことは、考えてみれば大きな変化だ。きっと、成長と呼べさえするほどの。

 つい最近、ある古典文学に没入し、他人事とは思えない挿話に遭遇し冷や汗を掻いた。「何か」に相対するとき、強固な意志でもって自分を操縦するような真似は本来避けたい。そう考えてはいるのだが、点と点を繋ぎ合わせていくと、いつも同じひとつの結論に辿り着くのだから、まるでため息が出る。そして、少々とはいえ、己の価値基準を第三者に委ねていた時期もあっただろうがなあ、と、過去に思いを馳せることがある。しかし私は、いつからか自分自身を好敵手として据え置き、そこから揺るぎなく目を逸らさないように注意を払いだした。それから、もうどれほどの時間が経っただろうか。何よりも、そんなことはどこ吹く風と、相変わらず肥大化を続ける我が好奇心には、驚愕を超えて恐怖すら覚える。だって、これではまるで海水を飲んでいるようだ。己の舌を満足させようとあらゆる手は尽くしてみるものの、喉の渇きがおさまる気配は一向にない。

 だが、仮にそうであるならば。この際、自らの勢いに興じてみるのもひとつの手かもしれない。ここからもう一度、と決意をし直す回数に、制限はない。走り惑い、踊り狂えばそれでいい。いつだってこの肉体は我が精神の奴隷であり、それでいて単なる、神様のおもちゃなのだから。

 

03.2022

 貴重な晴れ間を見逃すまいと留意しながら、すこしだけ外出の頻度を増やす。まるで私自身が、だんだんと春へ近づいてゆくように。こうして愚かな人間は、暗澹とした寒さを脱ぎ捨て、冬の重みを何度だって忘れてしまう。

 同時に、誰の身にも等しく訪れた未曾有の不条理から、丸二年が経った。目の回る速度で変化していく情勢の渦中に身を置きながら、諦めと赦しはこの瞬間にも加速する。矛盾するようだが、見通しの立たないことが次から次へと起こる状況下に変わりはない。それでも、世界は次第にきっと、やさしさに支配されていく。

 かつて、自分の信条を懐疑的なまなざしで観察していた時期が、たしかに私にもあった。克服した瞬間を明確に思い出せないのは、きっとそれが大きな変革ではなく、小さな変化の集積だったからだ。私は、私が積み重ねたものによって構成されている。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、それでいい。過去の継続に価値があり、継続が未来の価値になる。今なら、胸を張ってそう言える。

 けっして未だ長いとは言えないこれまでの人生で、しかしすでに私は、数えきれないほどの出会いと別れを経験した。自分と他者との間には、常に適切な距離が必要だと元来信じている私にとって、それは特筆すべき項目ではない。特に私が生まれ育った国においては、ひとの環境が顕著に変わる時期はある程度決まっている。どれほど願っても、木々が、花を咲かせ葉を散らすのを止められないのと同じで、その運命は誰にも変えられない。そのうえ、それはいつだって突然に訪れる。だから、慣れたと思っていた。感慨など、とうに捨て去ったとも。

 その考えを改めざるを得なかったのは、まるで今までとは立場が変わったからだ。今にして思えば、これまでは特定の場所にだれかを残して自分が去り、見送られることがほとんどだった。ところが、なんの因果かこの頃は、見送るほうが圧倒的に増えたのだ。それは同時に、あたらしい出会いが待ち受けていることも意味するのだから、純度の高い喜びの享受にほかならない。しかしそこには、わずかだが確かな淋しさを覚えている私が存在する。既存の感覚を組み合わせて、冬の終わりとともに起こる化学反応。自分自身が、地球上で唯一感情を持った生き物なのだと思い知る瞬間だ。そうだとしても、ただ穏やかな気持ちでそれを受け止めるだけなのだが。

 

02.2022

 痛みを伴う厳しい寒さに、もう何度打ちのめされてきたのだろう。そしてその厳しい寒さに呼応するようにして私は、しかし呆れるほどに冬を愛していると、もう何度思い知ったのだろう。とはいえ、外気の冷たさに耐えられず、家にこもる時間は増える。それに比例して、自分自身と対峙する時間も当然のように長くなった。言わずもがな、すでに気が遠くなるほどしばらくの間、どこへも行かず誰にも会わない状況は続いている。それでも、驚くことに私はきっと、この時をずっと、待ち望んでいたのだと思う。

 つまりはひとりに没入しながら、ここへきて私はまた、耐えがたい決別を経験した。孤独と別れは共存しないものだと信じて疑わなかったが、わからないものだ。大袈裟でもなんでもなく、身体に癒着した部品を無理やり引き剥がして手放すような行為に、私はひどく動揺した。しかし、我を忘れるほど取り乱しても、そんな自分をいつだってどこか俯瞰で眺めている自分がいると、さらに自分でまた気づく。かつては持て余し、どう埋めようかと苦労し続けた、広い広い空間。今の私なら、必ずうまく使うことができる。

 ずいぶんと執心していた記憶の棚卸しが、佳境を迎えている。ここのところ、昔の記録や古い歴史の中にこそ新しい発見があると思わされてばかりだったが、それは自分のこととても同じかもしれない。だって、画面の中で一心不乱に生きる少女を見て、思わず笑ってしまうのだ。光に包まれ、愛そのものとして存在する彼女のことを、私はずっと知らずに生きてきたなんて。彼女がこの先、どこを探しても見当たらないと思い込んで歩き回ることになる答えを、実は生まれた時からその身に纏っているだなんて。あまりに滑稽で情けなくなるが、大人の私は意地悪だから、しばらくは黙っておくことにする。

 そんな中、とりわけ輝く思い出を取り出して眺めたら、偶然だろうか、それもまた2月のことだった。そう遠くない、冬の日。寄る辺ない不安と淋しさを抱えて、飛行機の中でひとり泣いている若き日の私がそこにいる。そして、彼女が窓から見た朝焼けが、世界をひっくり返すほどの美しさだったことを、今の私は知っている。そう考えてみると、温かいものの温かさに気がつけることも、冬を愛する理由のひとつかもしれないな。

 

01.2022

 わずかな晴れ間に空を見上げれば、白鳥の群れが飛来していた。凍てつく始まりに背筋が伸び、私はすべてを寒さのせいにして、あらゆる扉を閉め切った。そうして意識的に外界を断絶し、いつかの冬について考える。誰かの隣で、たしかに共有した時間も存在したはずなのに、今となってはほとんど何も思い出せない。鮮明な記憶として残る景色の中に、私はいつだってひとりで立っている。ときどき、確認までにと前置きして、淋しいかどうか自問してみたりなどする。答えはいつも曖昧で、鏡の中の私は、そんな感覚は遥か昔に、どこか遠くへ置いて来てしまった、とでも言いたげな顔で私を見るだけだ。

 結果として、またひとつ大きな試験を受けて、望み通りの場所へ一歩近づいた。ため息まじりに笑みがこぼれる。これでまた彼女は、ひとりに没入していける閉鎖的な冬が、実利を伴うことを知ってしまったな。

 自分の身体を実験台にして、あれもこれもと試して遊ぶことを、相変わらずやめられない。人間の、とりわけ女性には興味深い機能がたくさん備わっている。そのひとつひとつを俯瞰で眺めていくと、どうにも神秘を感じざるを得ないのだ。

 そんな不思議に満ちた身体を使って、私は今日も運命を弄ぶ。おどろくような化学反応が起こるときには、面白くて、思わず声を上げて喜んでしまう。しかし冷静になって考えてみれば、すべては最初から定められていて、ただ神様が書いた脚本の上を踊るように歩いているだけのような気もする。あまりにも精巧に作られているものだから、つい惑わされてしまうだけで。だとしたら。だとしても。良いように操られる人形に徹して生きていくのも悪くはないかもしれない。だって私は、ただの道化師なのだから。

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