花と生きる

 わたしが(前談のとおり)ヨーロッパへ留学しようと決めたのは、東京で一人暮らしをしていたときだった。歳の頃は23歳、便宜上渋谷区に住んでいたこともあり、当然のごとく毎月の暮らしはカツカツ。ここから外国に拠点を移そうだなんて、まるで絵空事でしかないと、途方に暮れたことをよく覚えている。

 それでも、昔から自分で決めたことはなんだって、ときには手段を選ばずに実行してきた性分だ。もう大人なのだし、資金だって自力でなんとかしたい。そう決意して、最寄りの図書館へ通いつめ、貯金や節約に関する本を片っぱしから読みあさったことは記憶に新しい。そして結局、近所に数軒立ち並んでいた古本屋の力も借りて、お金にまつわる本を200冊ちかく読んだわたしは、ほとんどお金を使うことなく、今でも胸を張れるほどの節約・貯金のスキル(については別の機会に記すが)を手に入れた。かつ、それに付随して、ありとあらゆる習慣を身につけることになる。そのうちのひとつが、家に花を飾ることだった。

 「まとまったお金を自分で用意する」という行為と、すこしでも真面目に向き合ったことのある人間なら誰もがピンとくるとおり、ただがむしゃらに働いたり、空気中の塵を食べて生きるだけでは、「貯金」は不可能だ。矛盾するようだが、貯金するということは、まず自分の「心」に余裕を生むことから始まる。そのあと、それを追いかけるようにして、「生活」に余裕が生まれるのだ。

 お金について学び始めたばかりの頃、雑誌を読んでいて、わたしはそれを思い知った。読者の中から貯金体質の人たちを集めて、その共通点を探るという特集ページを開いて、面食らったのだ。だって、その写真に写っている人たちはみんな、「整頓された清潔なおうちに住みながら、気に入ったものに囲まれて生きる」ということを、両立していたから。

 お金を貯めたいならまずは要らないモノを処分して、すっきりと暮らすことから始める−というのは、今でこそずいぶん世間に浸透した常識のように思う。しかし、当時のわたしにとってその価値観は、本当にセンセーショナルだったのだ。むろん、ほどなくして掃除や片付けに関する本を読みあさり、おまけに風水までちょっとかじって、わたしの暮らしは見ちがえるほど変化した。

 しかし、きれいになった部屋を見渡して、まだ何かが足りない、と思う。我に返るように心に余裕が生まれたわたしには、その何かが何であるか、すぐに分かった。そのまま家を飛び出して、まずは近所の家具屋さんで、すこし装飾の施されたシャンパングラスを買ってみる。そのまま反対の通りまで足を伸ばして、今度はそこにあるお花屋さんで花を買ってみる。そうして、ワンルームのアパートに帰って、きれいになった部屋の机のうえに。せまいけれど、お気に入りの香水を並べて見るたび気分が上がるようにした玄関に。わたしは花を、飾ってみた。けっして豪華な花束なんかじゃない。それがかえって、ささやかでよかったのかもしれない。まるでショートケーキのてっぺんに乗ったイチゴみたいに、鮮やかで特別な彩りが、たしかに6畳の城の中に咲いた。

 余裕をもって、ていねいに生きるということは、ほんとうにむずかしい。誰しもがそうであるように、わたしもいまだに油断すると、自分自身の心や身体はそっちのけで「がんばって」しまいがちだ。しかし、そうやって余裕を欠いてくると、図太いわたしと違って、繊細は花はすぐに頭をもたげてシュンと枯れてしまう。そうしてわたしはハッとする。またやってしまった。ああ、大事にしてあげられなくてごめんね、と亡き骸を処理しながら、果たしてそれは誰に対してかける言葉かな、と自省するのだ。

 裏を返せば、花がみずみずしく天を仰いでいるうちは、わたし自身も大丈夫。だから朝起きて、シャンパングラスの水を入れ替えるたび、わたしは小さく願うのだ。今日もこの子が元気でありますように、と。