インターネット3.0 -ver.2-

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 1992年うまれ・ミレニアル世代のわたしが、インターネットとあゆんだ軌跡をたどるシリーズ。前回が思ったよりも長くなってしまったため、慌てて分割したのだが。ともあれ続けよう、「インターネット3.0 -ver.2-」。

 これはあらゆる角度から鑑みてそう感じるのだが、わたしはとにかく幸運に恵まれて生きている。歩くだけでラッキーを引き起こす体質は、東京に住み始めた途端にその本領を発揮し、それからもしばらく続いた。というのも、Cさんを始めとして、インターネットを介して出会った人たちと、そのあと何人か立て続けに、実際にお会いする機会があったからだ。一緒に上京した高校時代からの恋人と付き合い続けていたこともあり、相変わらず異性には目もくれず、わたしが会って親交を深めたのは、みんな同世代の女性だった。要するに、この時点でわたしにとって、ひととの出会いと関わりは、それがインターネットだろうが現実世界だろうが、相手を選べば何も変わらないものになっていったのだ。ただひとつの差異と言えば、インターネット上では依然として、仮の名前を名乗っていたこと。よって、そこから出会って仲良くなったひとたちはみんな、わたしのことを「ゆめちゃん」と呼んでいた。

 そんな折、専門学校の同級生が、FacebookなるSNSの存在を教えてくれた。詳細を聞けば、そのSNSはなんと、本名フルネームで登録するのが前提条件とのこと。かつ、基本的には、現実世界で実際に関わりのあるひとたちと、オンラインでも繋がるのだという。お察しの通りだが、わたしはパニックになった。なおちゃんもやろうよ〜!と友人は後押しするのだが、ちょ、ちょっと待ってほしい。インターネットで、実名を用いてプライベートな投稿をするの?しかも、知り合い向けに?なんで???というのが、当時の感想だった。眉をひそめるわたしに友人は、自分のページやら共通の友人たちのページやらを、危なくないよとばかりに見せてくれた。こわごわ覗いて、なるほど、日記つきの履歴書みたいなもんね、と解釈したのを覚えている。気乗りはしないが、まあ試すだけならいいか、と流されるまま登録したFacebookは、結局その後ほとんど運用しないまま、1年ほどで中華系スパムにアカウントを乗っ取られ、二度と使うもんかと即退会したのだが。

 何しろ、「SNS」が本格的に台頭し始めたのが、ちょうどこの頃だったように思う。見渡せばもう、みんながスマホを使っていて、TwitterでもInstagramでも、「友達になったらお互いをフォローする」ことが当たり前になり始めていた。ちなみにわたしがTwitterを始めたのは2008年、Instagramを始めたのは2012年だから、当然どのサービスも、仮名の「ゆめ」で登録していた。アカウントは他に持っていなかったし、やましいことや誰かの悪口を書いていたわけでもないから、リアルの友人に求められたら、若干の違和感を覚えながらも、ふつうにそのアカウントを教えていた。そんなわけでわたしのフォロー/フォロワーは、実際に会ったことのあるひとと、そうでないひとの割合が、この時点で半々くらいになった。ストレスこそなかったが、とにかく、時代が変わってきている、という実感だけが、そこには静かに存在していた。

 そうして専門学校を卒業し、そのまま写真の道へ進み、わたしは社会人となった。この辺りから、時代の移り変わりもさらに顕著になった。実際、社会人になったあとの交友関係は、オンもオフもごちゃ混ぜだった。オフラインの友人を連れて、オンラインで知り合った友人が営む店に遊びに行くなどというのはザラで、インターネット上で気になった展示会に足を運び、作家さんと生身で会うことになっても、もう良くも悪くも、最初ほどの衝撃も感動もなければ、大きな落胆もない。合うものは合うし、合わないものは合わない。「インターネットだから」ダメ、ということも、「現実だから」オッケー、ということも、ほとんどなくなった。オンラインとオフラインの垣根は、わたしだけじゃない。多くの人たちにとっても、ほとんど消えつつあったのではないだろうか。

 ただひとつ、個人的にはまだどうしてもこれだけはできない、ということが、ひとつだけあった。実名での発信だ。リテラシーやプライバシーの観点から、というのはもちろんだが、もうこれは長らく身体に染み付いた習慣のようなものだった。理由はないが、ただただ、やっぱり、あり得ない。この時点でも、「ゆめ」名義での発信は途切れることなく、手法を変えメディアを変え、細く長く続けていた。説得力を持たせるために、ほとんど顔出しまでして動画投稿をしていた時期もあった。それでも、名前だけは。「ゆめちゃん」に守られているから、わたしはここまで来られたのだ、という思いがあって、どうしても、手放すことができなかったのだ。

 さて、この時期、ゆめちゃんを盾にした現実世界のわたしはといえば、8年間の東京生活と6年間の社会人人生をいったん区切り、チェコ共和国は首都プラハへの、一年間の渡航に踏み切った。初めての海外生活は、当然のことながら怒涛のごとく過ぎていった。何しろ、わざと知り合いが一人もいない場所を選んだおかげで、等身大の自分自身で何もかもに挑まなければならなかった。くわえて向こうは、よっぽどオフィシャルな場でない限り、仲良くなったらファーストネームで呼び合う文化。ほとんどすべてを手放して、着の身着のまま日本を飛び出したわたしのことを、次第に増えて行く友人たちはみんな潔く、「Nao!」と呼んだ。それまでの暮らしでは、苗字をもじったあだ名で呼ばれることが大半だった。大人になってからもそれは続いたし、長らく「ゆめ」を名乗ったせいで、わたしは自分がNaoだということを、なかば忘れかけていたのかもしれない。

 そんなプラハでの生活が半年ほど続いたころ、わたしはとあるミュージシャンの男の子と知り合った。この男、とにかく他人を惹きつけては相手の懐に滑り込む才能に長けていて、いくつものクリエイティブなコミュニティに属しているボスのような人だった。そして、わたしが日本で写真の仕事をしていたと知るや否や、その可能性を秒速で買ってくれた。同時に、なぜもっとそれを活かさないのかと憤慨し(怖い)、君がやらないなら俺が仕事を探す!といきみ出した(怖い)。

 当然、二言目に出てきたのは(意訳だが)「で、ポートフォリオは?」という台詞だった。やばい、と思ったが、チェコ語が堪能でないうえに嘘もつけず、「ごめん、今はない…日本に置いてきちゃった…」と正直に伝えた。ああでも、データならあるから、やろうと思えば作れるけど…と小さい声で付け加えて。すると彼は眉ひとつ動かさず、「そう。じゃあ作って俺に見せて。金曜までに」と吐き捨て、そのまま帰ってしまった。

 

 −水曜の、午後である。

 

 ぽつねんとひとり取り残されたわたしは、呆然と立ち尽くしたまま真っ青になった。ちょっと待ってくれ。金曜に渡すとしたって、あと二日しかない。頭の中で計算した作品は、絞ってもざっと30点ほど。それらすべて、レイアウトを考えてプリントを依頼し、大急ぎで製本したとしたって、…間に合うわけがない。半泣きだったが、とにかくわたしはその勢いのまま、文房具屋へ走った。余談だが、チェコに滞在している間、こういう不条理な目に数え切れないほど遭った。慣れることは最後までなかったが。

 そしてその日、思いつく限りのチェコ語で検索を重ね、プラハ中を駆けずり回り、行ける範囲の写真屋と文房具屋、その他の商店に訪れては探したものの、ポートフォリオににちょうどいいブックが、まず見つからなかった。明日もう一度探そう、と思ってくたくたになりながら帰宅したときには、もう夜中だった。

 −翌日。個人の努力では限界を感じたわたしが泣きついたのは、おっかないボスと共通の友人である、デザイナーカップル(現在は夫婦)だった。「頼むからお茶しよ!!!」と謎の呼び出し方をし、快く出てきてくれた彼らには未だに頭が上がらない。涙目でエスプレッソを流し込むわたしから、開口一番「ポートフォリオ用のブック売ってるとこ知らない!!?」と聞かれた彼らは揃って、まったく合点がいかない、という顔でわたしに聞き返す。以下意訳。

「ねえNao、それ何に使うの?」

「金曜までに用意しろってHに言われたの」

「Hがブックの形でくれって?」

「…いや、そうは言ってなかったけど…」

 あれ、なんか雲行きが怪しい。静かになったわたしになんと伝えようか、目の前のカップルはやや気まずそうな顔を見合わせていたが、やがて優しくハモリながら言った。

「「いやそれたぶん、Webでしょ…」」

 その言葉を聞いて、自分の勘違いが恥ずかしいやら、もう走り回らなくてもいい安心感から気が抜けたやらで、わたしは大きくため息をついて天井を仰いでしまった。嗚呼、なんたる悲劇。ありとあらゆるメディアが電子ベースと化した現代において、この小さな東洋人は、もっともアナログな方法で自分の作品集を拵えようとしていたのだ。…いや、でも、待てよ。と、天井を見上げたまま考える。そうだとしても、だ。この時点で、木曜の午後。紙だろうが電子だろうが、残された時間はあと1日しかない。目の前の彼らも同じことを考えていたらしく、Webサイトだったら、僕たちで作ろうか?と提案してくれた。神様か。

 しかし、そのありがたい提案は、ていねいにお断りするに至った。HPなら、自分でなんとかできる。経験則と直感が、そう叫んだからだった。コーヒーを飲み干し、本当にどうもありがとう、ちょっと今から頑張るわ!と立ち去るわたしに、やさしい彼らは最後まで、幸運を祈ってくれた。だから神様かて。

 そうして大急ぎで帰宅したわけだが、勝算があるのには理由があった。ここへ来て未だに、いろんなプラットフォームを試しに使って発信してみていたわけだが、中でももっとも長く続いていたのが、独自ドメインを取得したワードプレスのブログだったのだ。幸い、お金を出して買った日本語の教本まで手元にある。もちろん、既存のアカウントは仮名で登録していたから、ポートフォリオサイト作成にあたっては新たにドメインを取る必要がある。とはいえ、新たなキャラクターを構築する時間もなければ、何よりその文化(?)を、ボスである彼に理解されるはずもない。もう、迷いはなかった。本名そのままに、naoumezawa.comのドメインを取得し、大至急HPの作成に取り掛かる。Webサイト運営に関しては、何年続けても未だに素人の域を出ないまでも、久しぶりに徹夜したおかげで、翌日、金曜の昼過ぎにはなんとか形になった。何度か自分で見直して、例の彼にURLを送る。あれだけプレッシャーを与えておいて(と、わたしが勝手に感じていただけだが)「サンキュー。見とくわ!」という爽やかな返事が届いて、もう言葉も出なかった。しかし、ともあれ重大なミッションを終えたわたしは、やっとの思いでMacBookと、自分の瞼を閉じたのだった。